*第39回とは…1898(明治31)年3月、有馬農業補習学校の卒業を第1回卒業生としてカウントしており、その後の有馬農林、三田農林と通算している。

1924(大正13)年生まれの今北さんに、80年ほど前のことを少しでも多く思い出してほしいと、清陵会で保管している本科の卒業アルバムを持参して、写真を見ながらお伺いした。
―当時三田農林(第二本科・本科)に来ていたのは
「寄宿舎があった。三田中学校にもあった。広うから来ました。2時間に1本ぐらいと国鉄の本数が少なかった時代、篠山口の周辺は通えるが、東に離れた地域は無理。氷上も柏原駅をちょっと離れたら下宿。六瀬も。美嚢郡では、口吉川は県立農学校(県農)に行く人と三田農林に行く人とが両方いる地域。山田(神戸市北区)は三田農林に来てました。阪神間でも農業習う人がいました。三田農林に来ている人がいた。川西の加茂の桃の産地から来ていた。本庄村(神戸)、精道村(芦屋)からも来ていた」
―尋常科を卒業して三田農林へ進まれたのですね
「親は「百姓するんやったら農林は出ておけ」と」
「昭和11年3月、三輪町立三輪尋常高等小学校尋常科を卒業して三田農林学校第二本科へ」
「入学に当たって学生帽、実習のときの帽子、制服、巻脚絆(ゲートル)などを購入した。行きも帰りも巻脚絆を巻いて」
※この後も第二本科についていくつかお尋ねしたが、お忘れのようであった。
【補足】第二本科 服装(中央は実習中の服装)

 

【補足】三輪尋常高等小学校
1936(昭和11)年3月 尋常科卒業 男40人・女49人 計89人
1936(昭和11)年4月 高等科入学 男34人・女40人 計74人
【補足】三田農林学校 第二本科
1936(昭和11)年4月 募集人員:50人(1学級)
入学志願者:60人
入学者:48人(経歴別 尋常科卒業40人 その他8人)
*第二本科受験入学は尋常科卒業生が原則。本科は高等科卒業生が原則。
*第二本科は1931(昭和6)年4月が第1回の入学生、二年制で1933(昭和8)年3月が第1回の卒業生である。1936(昭和11)年4月に第6回入学生を迎えたが、翌年度からは募集停止されたため、今北さんらは最後の入学生になった。1938(昭和13)年3月、今北さんは卒業された。第二本科の第6回卒業で、第二本科最後の卒業生であった。卒業生は45人(内38人は本科へ進学、卒業)。
―第二本科から本科に進まれました
「第二本科から本科に進むとき、簡単なペーパーテストがあった記憶がある。第二本科だけで本科に進学しなかった人もいる。FN君は第二本科まで農林にいて阪神間の学校に転校しました。三輪から4人ほどが農林へ」
【補足】三田農林学校 本科
1938(昭和13)年4月 募集人員:100人(2学級)
入学志願者:127人
入学者:108人(年齢14歳~18歳)
―組や先生方について(ここからアルバムにもとづいて)
「2クラスあって忠組、孝組と呼んでいた時代だが、どちらだったか忘れた。担任の2人は大西先生、藤園先生」
「大西先生は畜産の先生で、勉強家でね、軍隊経験もある人でした。福崎出身です。わたしが兵隊から帰ってきてからも、出会ったときに今北君よう帰って来たなあと」
「藤園先生は、出身は鹿児島。専門は林業で、測量もこの先生から、測量と林業を教えてもらいました。短歌やったり、あちらこちらの校歌の作詞をやったり」
「相原先生、農産加工が専門だったと思う。教頭の立場でいた。わたしは直接教えてもらっていません」(戦争末期上郡農学校校長に、戦後有馬高校校長に)
「妙中先生は篠山の歩兵第70聯隊から派遣された現役の配属将校、和歌山出身の人。三田中学校と三田農林学校の掛け持ちですわ、聯隊の人数がだんだん減ってくるから。1人ではまわらないので、そのかわり補助の人が、退役した同じ少尉やけど年配の人が篠山から来てました。気の毒に召集されました」
【補足】三田農林と配属将校
1925(大正15)年度に「歩兵第七十聯隊附歩兵大尉」桐原篤が配属されたのが始まりである。妙中将校は、昭和14・15年度は歩兵少尉、16・17年度は中尉。
1925(大正14)年4月、陸軍現役将校学校配属令によって、学校に配属された陸軍現役将校が教練を教授することになった。教練の内容は文部省訓令によって、射撃、指揮法、部隊教練、軍事講話、兵器取扱手入保存法、旗信号ほかとされた。時数は毎週2時間とされ、別に野外演習があった。
2019年11月22日附神戸新聞に(今北さんが)「12歳。県立三田農林学校(現有馬高)に軍事教練が入った」とされたのは、何かの誤解である。
―アルバムには「戦線に立つ恩師諸先生」と題して6人の先生が写っています
「前田先生が教練の補助の役割、しかし召集で最後までいなかった」
「玉木先生、国語の先生で、見習士官のときかに学校にほいっと来たときがある。農林に来て間なしに召集でした」
「山本先生、我々の先輩ですねん。成績がよくて学校に行かず農林の先生の資格を取って、蔬菜の先生してました。この人も召集されました。しかし兵隊に行っても教育関係に引き合いますねんやなあ、任官してから豊橋の士官学校の教官になって、兵隊でものすごく出世しました」
「西中先生、この人も我々の先輩。伊丹中学校の先生していて、農林学校に来て、召集で1年もおらしませんやったろう」
「西垣先生、前田先生のあとに来てくれたが、半年もおらずに召集」
―奉安殿の写真
「校門を入ったところにあって、朝登校してきたら敬礼、素通りはしません。帰りは、わたしは自転車で通学していたので置き場にまわって帰ってました」
―(三田)天満神社参拝の写真
「月に1回ずつ参拝に行った。一年から三年まで揃って。三田高等女学校も日は違うけれど参拝しよりました。祈るのは武運長久ですがな」
「毎朝、朝礼のときに、天気さえ良ければ校庭で、東の方を向いて、皇居の方を向いて武運長久を祈りました。それだけ民心を集めたわけや」
―生徒自治村会の写真
「一年から三年まで代表が出て、町会・村会の恰好で、学校のいろんな意見をもって出ろというわけや」
*アルバムには「二週間に一度此所に会し」とある。図書室としても利用されている部屋で。
「これに参加していたかどうか覚えていません」
「卒業アルバムの編集委員に関係しました。アルバムの編集をやりました。1週間ほど、先輩のアルバムを持ってきて、これを参考にどの資料を使おうかと」
*アルバム最後のページには「我々は此の冊誌編輯にあたりて微力ながらも尽力した…さらば 諸兄よ 永遠に御多幸あれ 太平洋の風雲急ならんとする日(アルバム委員より)」とある。
―査閲(十二月十一日)と銃器庫の写真
「査閲は、篠山の歩兵第70聯隊から査閲官が来ます、佐官(少佐・中佐・大佐)級の人が来てでした。4列縦隊で行進。行進しとる時は、級長しとるものは指揮刀を持って、ちょっと将校の恰好するわけです。「ささげつつ(捧げ銃)!」(軍隊での敬礼の一)ってしてました。査閲は年に1回」
「こういう訓練は一番大々的にやったのは、宝塚まで汽車に乗って行って、宝塚から広い所で三田中学校と農林と対抗して摸擬的な訓練を受けた。配属将校も補助の人も総動員で。あのときは銃持って、帯剣つけて、背嚢負うて、巻脚絆巻いて、兵隊さんの恰好して」
「銃器庫には、三八式歩兵銃、軽機関銃まで、防毒面もありました。木銃も置かれていた。何番の銃は誰々と宛行われる。責任がついてまわる。銃の手入れがついてまわる、月1回というほどではないが。銃の手入れ日には銃腔の中を油と布で掃除して」
「防毒面をつけた訓練もありました。演習に上野のゴルフ場あたりに連れて行って、防毒面つけて、銃持って駆け足させられました。そういう兵隊の真似事ばっかりで1日暮らしたこともありました」
【補足】学校教練と査閲
教練査閲官が任命され、各年度に1回は、教練の成績を査閲させた。
【補足】三田ゴルフ場
1930(昭和5)年に有馬ゴルフ倶楽部として開場した。当時は小柿・後川にのびる県道西側にもひろがっていた。たびたび軍事訓練に使われたり、戦争が拡大すると、陸軍の資材貯蔵地ともなった。
「木銃を使った訓練もあった」
「教練は教官も一生懸命で、それやりだしたら勉強はお預けのようでしたなあ」
「教練では空砲も撃ちました。実弾は全然なかった」
―武庫川堤防の草刈り写真
「稲川照三郎校長が来る前は、小谷保という東京帝国大学農学部出た校長です。普通は農林に来るような人ではない。もう一人、名古屋帝国大学出た先生もおりましたけど、すぐに代わりました。小谷校長は直に引き抜かれました」
「小さな温室に葡萄園があって、葡萄の出来が悪いと、土が悪いんだと。全校生徒動員したんだったか、道場川原まで袋持って。石を拾って持って帰って、葡萄園に溝掘って石を詰めて暗渠排水を作りました。石は重たかったですよ。これは小谷保校長のときか。草刈りも小谷校長のときからか。」
「天満神社の鳥居越えたら右に降りるところがあります(当時)。松山堤防のあたり、草はいくらでもあります。草を刈ってきて農場まで持ってきて」
【補足】小谷保校長・稲川照三郎校長
小谷保 1937(昭和12)年5月着任―翌1938(昭和13)年9月離任

稲川照三郎 1938(昭和13)9月着任―農林学校の最後まで

【補足】小谷保校長と草刈り
小谷保校長は70周年に回顧談を寄せておられる。今北さんの記憶が正しかったことが裏付けられる箇所を紹介する。「あらゆる点で頑張ることの必要さを知らしめたいと思い、武庫川の堤防で夏の暑い最中、終日草刈りをやった」
【補足】小谷保校長の転勤先
当時、満州国への移民が国策として進められていた。小谷校長が農林に着任した翌年(昭和13)1月に「満州開拓青少年義勇軍募集要綱」が決定され、ただちに全国から16~19歳の青少年が募集された。国内であらかじめ訓練する機関として、茨城県東茨城郡内原村に訓練所「内原訓練所」がつくられ、ここを終了した青少年は満州へ渡った。小谷校長はこの内原訓練所へ引き抜かれたのである。

―水田畜力除草の写真(牛が畜力除草機を引いている)

「牛を使って草取り、家ではやったことはありません」
―温室と室内で育つカーネーションの写真
「温室のカーネーションの暖房は、当時は石炭で守り、保温に大変だった。誰が世話したのか、生徒が宿直当番することはなかった」
―豚肉加工の写真
「豚肉の加工は大西先生が担当。ハム・ソーセージ作りは得意な先生。加工は生徒みんながやったわけではない。一部の人が。経験したものと、授業の話だけでおわったものといたと思います」
―薬剤製造・薬剤散布の写真
「当時はメートル法、尺貫法半々で使い分けよったかなあ。面積を何アールなどと言いません。記憶に残っているのは農薬を作るときは、ボルドー液を作るときは尺貫法でした。4斗式ボルドー液が標準です。片方、2斗の水に120匁の硫酸銅を溶いておいておき、片方、2斗の水に120匁の生石灰を溶いて、そうすると沸いて熱くなります。若干雑物があるのでそれを濾して。間違わんように覚えとけよ、青い硫酸銅は空や思て、空から生石灰の桶に入れろと。一番いいのは4斗桶があって、生石灰持つ者と硫酸銅持つ者と一緒に入れて掻き混ぜる。フランスのボルドー地方の葡萄の消毒に使われた、これがはじまりで、われわれのところにそれが伝わって来た」
―自動耕耘機運転実習の写真
「自動耕耘機は初期のトラクター。回転やなしにカッカッカッと。よう止まってね。犂で農夫さんが牛で耕す、このほうが多かったのでは」
―養蚕実習・座繰製糸の写真
「天満神社の真前、横言うてもええけど、桑畑があったんですわ。そこに1区画。西山との間の三田谷(現在天神三丁目)にも1区画ありました。桑摘みに行ったし、蚕に桑の葉をやることも稽古しました」
「どうやって繭から糸を引っ張り出すのかおもたら、稲の穂をとったあとの藁すべ(わらしべ 藁稭)の束をこしらえて、繭をお湯につけて、グラグラしているとき、藁すべの束にひっかかって繭の一番先がついてあがります。5本も6本もよせて引っ張り上げます。はじめから1本だけではない。そのように習いました」
「養蚕の先生は長野県の上田市に養蚕専門の学校があり、そこ出た先生です」
―松脂採集の写真
*アルバムに「幹を伝ふ琥珀の雫 その一滴が国力を培ふ」とある。写真には幹の一部に表面の粗皮が剥がされた箇所とそこに付けられた松脂受けの容器が見える。
「わたしはこれをやった覚えはありません」
―長尾村特設農場の写真
「三田中学校越えて、2mほどの山道をだいぶ入って行きました。泊り込んで実習です。午前中はそこから勉強に学校に通いました、必修の科目がある日は。実習がある日はここで実習です。小西康六という二つ上の先輩が助手でおりました。のちに芦屋に行って県会に行きましたやろ。元気者でした。特設農場専任は小南先生。ところが学校辞めて、道場の禅宗の寺に入って修業して坊さんになって。盆の棚経もうちにあげに来てでした。2年ほど。寺で亡くなった。この地域の寺に近い人が病院に運びました」
―陸上大運動会(十月十五日)の写真
「運動会より全校300人一斉に、11月の明治節のころ毎年マラソン大会がありました。校門出て桜の馬場に下りて西街道を走って嫁ケ淵まで行って、折り返して帰ってくる。10kmほど。わたしは第二本科2回、本科3回と5回走っている。3回ほど手拭もろたで」
―品評会(十二月一日)
「あまり覚えてない」
―剣道部・庭球部・競技部の写真
「わたし剣道部に入ってました。三田中学校から交流試合に来てました。胴や面も竹刀も家を建て直すまでは残していたのですが」
*講堂での謝恩会の写真で卒業アルバムは終る。
【補足】1941(昭和16)年3月卒業
本科卒業:98人
卒業時年齢:最小17.0歳 最大18.6歳 平均17.3歳
―昭和16年3月に農林卒業、その後どうされたのですか
「昭和16年3月に卒業してから、1年ちょっと家にいて一度だけ稲作やってます。昭和17年7月に徴用がきました」
「行き先は、いまの川崎重工業、川崎造船所です」
【補足】徴用 川崎重工業(川崎造船所)
1938(昭和13)年4月公布された国家総動員法第4条で、国民を徴用して総動員業務に従事させることとし、勅令で国民徴用令が定められていた。
社史によると、1939(昭和14)年12月1日、「株式会社川崎造船所」の社名を「川崎重工業株式会社」に変更している。1941(昭和16)年から1945年の間、「当然のこととして当社の艦船工場も航空母艦と潜水艦を中心に多忙を極めた」(社史)。空母「飛鷹」が1941年6月進水、1942年7月に引き渡している。空母「大鳳」が1943年4月進水、1944年3月に引き渡している。1943年7月から「生駒」の建造を始めている。1944年11月進水するが竣工せず。同工場は1945年3月17日、6月5日の神戸空襲で甚大な被害を受けた。
「通勤ではありません。泊り込みです。寮がありました。阪急岡本駅の下のくわばら邸という大きな家を開放してもらってバラック建てて、そこで2,3カ月いました。そのうちに山陽電車の滝の茶屋駅の崖を上がってちょっと行ったところに宿舎建てました。そこへ移動して。そこから塩屋まで歩いて、そこから神戸駅まで乗って、われわれは近いので正門ではなく一番東端の門から出入りしてました。軍艦(航空母艦)の動力は蒸気タービン。われわれ造船した航空母艦の機関室に、他所でできあがったタービンをきちんとレベルに3基据え付け。ボイラー室から太い導管で高圧の蒸気を送ってきます。その導管をきちんとしたレベルに据え付ける。据え付けたらタービンが回って動力ができる。回った蒸気が出口でまだ力が強いので、次のタービンへ移る復水器いうて、もう一回力をつける腹水器通ったやつで次のタービン回してと、タービン3基回ってました。タービン据え付けるのと、タービンにできた力でシャフトを回してスクリュー回す。何回も上げ下げして。それは緻密な厳しい仕事でした」
「ここに2年ほどいて、最後、その船と一緒に呉の工廠(広島)まで行って、別府の沖で運行テスト。瀬戸内と違って豊後水道まで行ったら大きな船が大きく揺れる。船のバランステストをしました。それと甲板の飛行機、1階、2階まで2室ほどあって、エレベーターで降ろして格納します。そういう訓練もやりました。これで大丈夫だとなったら、いよいよ呉の海軍工廠で艤装工事いうて、大砲積んだりなどの装備をする」
「わたしは徴用先の川崎で徴兵検査受けたんやけど、これは海軍行かされるなと内心思てました。結局そうではなかったけどね。わたしらは教練は学校で済んでますから、それは免除ですねん。小学校だけを出た人は、兵隊までに週に1回川崎の小学校へ寄せて軍事教練しよりました」
―召集令状がきたのは
「昭和19年の入隊です。この辺りは大阪に師団司令部がある第4師団ですやろ、第4師団管内から東北の秋田・山形・青森の聯隊(第8師団、昭和14年第24師団に転属)へだいぶ行きました。わたしはここから山形に入隊したんですよ。歩兵第32聯隊に入隊したんです。32聯隊は満州の一番北端へ」
【補足】第32聯隊
「大東亜戦争末期まで第三十二連隊は、ソ満国境に在って国境警備に当たっていた」(『日本陸軍連隊総覧 歩兵編』1990年)
「黒河いう町があって 向い側が黒竜江挟んでヴラゴヴェシチェンスクです。明石の港から淡路の岩屋を望むぐらいの川ですわ。黒河の山一つ越えたこっちに神武屯という部隊がありました。それは山形の本隊から分れてきた部隊で、わたしはそこへ入りました。入ったのが昭和19年の10月のかかりでしたか。わたしは19年の9月の24,25日ごろに山形へ行って、山形で服着せてもらって、背嚢もなしで雑嚢ひとつと飯盒と水筒とを持って、東海道線まわって博多まで行って、博多から一晩寝たら釜山でした。そういうコースで満州北端まで行きました。満州に行きましたけれどじっくりしたことは1回もなかったですわ」
【補足】黒河
「黒河省の省城の所在地で大黒河ともいって、内地邦人八百人も在住している。黒龍江を挟んで西伯利亞のブラゴヴェンチェンスク即ち海蘭泡と相対し対抗市として建設したもの」(『満蒙歴史地理辞典』昭和10年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(昭和14年発行地図 右下に黒河がみえる)
「戦況が悪くなっていることは私らには全然入りませんけど。12月の暮れ、正月の前に筆記の検閲(兵士の成績を検査する)済んで幹部候補生のテストです。テストのときに、口頭試問のときに将校がちょっとおかしいことを訊いたですわ。内地の戦況をね。「われわれは必勝の信念でやってます」と言うたら、折り返して必勝の信念の裏付けは何がありますかとの質問ですわ。そんなことわかろうはずがありません。ペーパーテストがあって日を改めて面接、口頭試問、佐官級が並んでいたところで。あとからわかったんやけど(終戦になってから)、「必勝の信念の裏付け」を訊くということは、雲行きが悪いということです」
【補足】幹部候補生制度
昭和20年の陸軍将校準士官下士官兵の階級は二等兵・一等兵・兵長・伍長・軍曹・曹長・準尉・少尉・中尉・大尉・少佐・中佐・大佐・少将・中将・大将。陸軍では幹部とは下士官(伍長・軍曹・曹長)以上を指すにすぎない。「元来中等学校の学校教練に合格した者が、徴集で二等兵として入営後志願して試験により幹部候補生とな」るという制度。
「(黒河に)3月一杯いたんです。ところが2月の末、ひと月ほど前に中隊の担当の少尉が「内地に帰る」言いますねんや。あいさつして一足先に帰ると、妙なこと言うなと思いました。3月末になったら、「本隊はいよいよ内地防衛で帰る、ただし君たちは次の部隊へ移動してくれ」と。連れて帰ってもらえず残されました」
「次の部隊は秋田かの部隊の出先ですねん。ところが行ったところ、その部隊も移動の準備しおりますねん。だからわれわれ幹部候補生も即仕事与えられまして。4月一杯いて、5月にもう移動ですねん。ということは戦況が悪いので新しい本部をこしらえようというので。関東軍の本部が新京にありましたが、朝鮮と満州の国境に近い通化いう町、そこに新しい司令部をこしらえる、そこへ移動です。満州の各地の部隊がどんどん寄ってきて、そこで陣地の構築です(終戦直前に関東軍総司令部が新京から通化に遷された)。5,6月とふた月おいてもらって、また移動です。奉天へ移動です。奉天で7月1日に入隊。うわさでわれわれはここを出るか出んかでフィリピンやのうと、フィリピン行きやという噂がでていました。戦況が悪くなってきて、内地の人らの方がよくわかっとるやろけど、われわれは戦況は全然わからへん。これからさきも言うてくれません」
「奉天は南満の中心都市ですが空襲はなかったです。8月にソ連が参戦しましたけれど(九日・十日にかけてソ連軍は満州国に進攻した)、われわれにはそれは伝えてもらえない。なさけないことに、われわれ通信隊であっても、そういうニュースは入りません。戦車もなければ弾もない。あれくらい撃ち込んでいったらなあ。満州はおかげさんで内地よりも食事はよかったですわ。しかし弾薬がないことほどおそろしいことはなかったです。わたしはそういう経歴です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(昭和14年発行地図 上中央に新京、左下に奉天、中央下に通化)
【補足】今北さんはその後シベリアに抑留された。
神戸新聞三田版に「戦争って何?―平成生まれの記者が聞くシベリア抑留」と題して、2019(令和元)年11月に5回にわたり連載された。北摂総局の記者が4カ月かけて今北さんにインタビューしたものである。
11月21日(木) 「①極寒の地獄へ」
11月22日(金) 「②兵隊になって一人前」
11月26日(火) 「③資源を奪い合う悪循環」
11月29日(金) 「④人の運命を国が握った」
11月30日(土) 「番外編 引き揚げの町舞鶴港へ」「想」
―同級生、上級生の卒業者名簿をみて
「Oさんは一歳上の人で、わたしと同じようにシベリアに抑留されて、1,2カ月ほど早く引き揚げてきて、わざわざ帰ってきたぞと親父らに報告に来られている」
「同期では、Nさんは長男やけど戦死、Hは戦死。IIも戦死。HMも戦死。IBも戦死。戦死の人が何人おってかなあ」
「FYは現役志願したがはやく戦死。16年3月に卒業して、17年に志願したんだろう。丹波で二人、有馬郡でFY君ら、確かな人数は忘れた。美嚢郡でKH君、立派な体してました、現役志願し少尉に任官したか見習士官かぐらいで戦死。現役志願した人は1人も帰ってきていない。フィリピンでたくさんやられました」
【補足】徴兵 現役志願
満20歳からだが、満17歳に達したものに現役志願を許した。1927年制定の兵役法では、日本国籍を有する男子全員に兵役義務、満20歳の徴兵適齢者に徴兵検査を受ける義務を課した。兵役法を改正して、1943(昭和18)年12月24日に徴兵適齢を19歳にした。
―昭和24年に抑留から帰ってきて
「昭和27年だったか、親がこの地区の区長にあたったが、体調が悪かったので、若くてもわしがやってやると地元の区長をした。三輪町長が泉常三郎(昭和25年4月~29年4月在職)でした。会には親父ぐらいの年齢の人ばかりがでてきてました。ちょうど町村合併の議論が盛んな時で、何回も会議に出ました。あのころはおもしろかった。そのころ稲川さん(最後の農林校長)は学校辞めて三田にいた。関東の人だが。町村合併の議論が盛んなころ、三田町の町会議員をやっていた」
【補足】三輪町の町村合併
昭和28年9月、町村合併促進法が制定された。神戸市に合併するか、有馬郡内での町村合併か、現状維持か、活発な議論が行われた。神戸市への編入は実現せず、昭和31年に三田町・三輪町・広野村・小野村・高平村の五カ町村が合併し「三田町」が誕生した。33年にようやく市制施行が実現した。
「昭和50年に県の農業経営士に認定してもろて。昭和51年、県が花と緑のヨーロッパ園芸視察(団)を派遣します。2週間、ロンドン、パリ、ジュネーブ、オランダ、西ドイツへ。三田から西浦道雄(前清陵会会長)さんとわたしの二人選ばれて。花5人、野菜5人、県の普及部からと14人体制でした」
【補足】兵庫県農業経営士 兵庫県HPから
制度の趣旨「自ら優れた農業経営を実践しつつ、地域農業の振興及び農業後継者等の育成に指導的役割を果たしている者を、県が「兵庫県農業経営士」として認定し、農業と農村の振興に寄与いただくことを目的としています」
【事務局から】
昭和50、51年ごろに話が及んだころ、長時間になっていたのでこの日のインタビューはここで止めました。もう10年、20年はやくお出会いしておれば、貴重な話がもっとたくさん聞けただろうにとの思いを強くしました。今北さん、ありがとうございました。

(執筆 上垣正明)