学校が夏休みに入った7月下旬、清陵会館の事務局を訪ねてくださった。三田には、市内の心道館に汗を流しに、週1回ほどは来られているそうだ。
佐野さんは、滋賀県の浅井長政ゆかりの地で生まれ育ち、高校も地元の高校へ。大学では国文学、現代詩を専門とする文学青年。1977年4月、本校定時制に就職し、教員生活をスタートされた。当時の校長は畑中芳夫さん(1976年から本校校長 故人)、有馬高校といわれたとき、滋賀出身の佐野さんは有馬温泉かと思ったそうです。国鉄時代の福知山線が単線のころで、武田尾駅で行き違いのためにしばらく停車するが、どこへ行くのやろうと心配に(類似の話はいまも聞くことがある-事務局)。着任当時の有馬高校(全日制)の女子生徒の制服は黒色で珍しく、生徒自らがカラスの制服といっていた。
神戸電鉄三田本町駅近くのハサマアパートで下宿生活。当時は本町通りがにぎやかだった。定時制(当時は四年制)には3年間、1,2,3年と担任、定職に就いている生徒も多く、国立療養所兵庫中央病院附属高等看護学院のひとたちはよく勉強していた。定時制ならではの経験は、生徒から離婚の相談を受けたこと。定時制勤務時代に、職場結婚、隣の天神公園はデートコースのひとつだったそうです。仲人は畑中校長、懐が深く、責任をとってくれる人物という印象が残っている。
1955年4月、声が掛かり全日制に異動、酒造保学年主任担当の35回生学年団の一員に。3年生の時は9組担任、男子9人で女子が4倍近くのクラス。有馬高校の学校行事には、それぞれに思い出があり、合唱祭では2組?(男子ばかりのクラス)の生徒が、当時流行っていたシャネルズの曲を、生徒のピアノ演奏で合唱、上手だった。体育大会では3年各担任の仮装があり、佐野さんは、大阪道頓堀の「くいだおれ太郎」(株式会社くいだおれのマスコットキャラクター)に生徒たちによって仮装された。生徒曰く、先生が「くいだおれ太郎」に似ているからだった。<当時の校長は大江卓さん(故人)、有馬農林学校の校訓「ほんきであれ」を前面に学校運営にあたり、そのため、35回生卒業アルバムは校訓「まこと」ではなく、「ほんきであれ」が表紙に金で箔押しされている-事務局補足>
35回生卒業後、38回生1年を担任して、宝塚東高校へ転勤、早々に三年生を担当、有馬高校時代の口調で喋ると怖いといわれたそうです。ついで尼崎稲園高校へ転勤、同校で県下はじめての単位制を導入したころで、貴重な体験ができたようです。阪神養護学校(現特別支援学校)を経て上野ケ原特別支援学校で、教員生活を終えられた。上野ケ原在職時、最後の3,4年間は、神戸市西区の県立リハビリテーション中央病院に入院している睡眠障害の児童・生徒を対象にした総合リハビリテーションセンター訪問学級に携わられたそうです。
定年後は再任用を選ばず、山南町内にセカンドハウスを購入、入り浸り、理想とする“晴耕雨読”の生活を実践中。家庭菜園も手掛け、周辺の草刈りも。倉庫も手作り。野生動物がいっぱいで、シカ、イノシシ、サル、野ウサギなどがでてくるそうです。
セカンドハウス内に一部屋を確保して取り組んでいるのが能面づくり、もう25年ほど続けているそうです。在職中に趣味をつくろうと、大阪梅田の能面教室をみつけ通いはじめ、現在も通っているそうです。作業に専念できる時間がもてるいまは、半年に一面ぐらいのペースでつくられる。インタビューのこの日は、持参された能面7面を拝見し、同席の事務局員たちは、普段みることのない能面に興味津津。7面は、“蝉丸(せみまる)”“顰(しかみ)”“赤般若(あかはんにゃ)”“小面(こおもて)”“猩々(しょうじょう)”“翁(おきな)”“増女(ぞうおんな)”。ひとつの広辞苑ぐらいのヒノキの角材から彫りだし、岩絵具を塗る。丸鑿を研ぐのは難しいそうです。これらの作業自体が楽しいと語る佐野さん。袋も自作、ミシンも買って、裂は手芸店をめぐって材料探し。
することはいっぱいあると、定年後の生活を楽しんでいる佐野さんでした。

(執筆 上垣正明)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤般若面(あかはんにゃ)

 

 

 

 

 

 

 

小面(こおもて) 翁(おきな)

 

 

 

 

 

 

 

蝉丸(せみまる) 顰(しかみ)

 

 

 

 

 

 

 

 

増女(ぞうおんな) 猩々(しょうじょう)