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向井 一成さん(農林43回)

開口一番「私は非常に素晴らしい人脈に恵まれてネ……」
自分の手で焼き上げた、お薄茶碗でお茶をたてながらそう語られる向井さん。 お人柄に似てとてもまろやかで素晴らしいお点前でお迎え戴きました。

お聞きするところによると、飯田会長と同期の三田農林43回生との由。 関学三田キャンパスを見上げる閑静なお宅の書斎には、ところ狭しと焼き物が並べられ、陶芸への憧憬の深さを伺えます。 実際、古三田青磁・三田焼研究保存会(会長・畑中芳夫氏)の副会長をお務めとのこと。 既に氏の語られる人脈には同窓生がお二人加わっておいでで、本校で培われた強い絆が、 氏の地域活動は言うに及ばず、社会活動の全ての大きな”支え”となったとのお言葉は、 人間関係がややもすると希薄になって行く現在世相への貴重な教訓のような気がします。

若い頃は本校に勤務され、官職を退いた後は、地域、農協、三田市を問わずありとあらゆる役員を歴任されました。 中でも感慨深げに語られたのは、土地改良と社会教育草創の頃の苦労話でした。
河川改修と絡めた土地改良では、 「集落の中央を流れる沢谷川を片方に寄せて、効率的な圃場を孫や子に残したい」 という思いを遂げるため、”沢谷のスッポン”と言われるまでねばり強く交渉を重ねたこと。 社会教育委員在職中は委員長をも歴任、社会教育の重要性を説く傍ら、主事制度の創設と公民館建設に奔走され、 現在の学校、家庭、と並ぶ社会教育の隆盛の種を蒔かれたことを、熱っぽく語って下さいました。

そんな時助けてくれたのが県市に勤める同級生でした。 誇らしげなこの言葉を聞きながら、無為に過ごすも3年、在学中に人間関係を構築し将来の大きな財産とするのも3年、 所詮人間は一人では生きられない、そのことを再確認した訪問でした。

とは言っても、向井さんの人生は決して順風満帆ではありませんでした。 社会のため家を空ける夫の留守を預かり、一心に肉牛肥育農家を支えて来られた奥さんを、58歳の若さで見送る試練に出合われました。 「奥さんの分も健康で長生きをして下さい」と祈りながら、カルチャータウンとうまく調和した田園の広がる沢谷を後にしました。

(文責:大西勲)