6月の晴れた日にご自宅におじゃまいたしました。すぐ近くに三田西インターチェンジや工場が立ち並んでいるのですが家の周りは静かな田園風景が広がっています。近くの湿原には日本1小さい八丁トンボが生息しトキ草・食虫植物が地生していますが今はずいぶんと少なくなっていると話されました。

 三田農林学校と三田女学校が合併して有馬高校となった記念すべき年に入学。
担任は原田春男先生で何から何までお世話になり丁寧に教えてもらいました。原田先生との特別な思い出は授業で農業実習があり、実習で使った鍬を汚れたままにしていたので皆に洗ってと言っている所を聞いておられ「お前いいことを言う」とその他のこともあってその時の通知表が秀でした。クラスは20人くらいでみんな仲良く「おい!こら!」ですんでいた。上馬先生には農業機械を坂本先生や藤江徳三先生にも教えていただきました。
そして原田先生のもう一つの思い出は農業実習で県から有馬高校に送られてきた24D(ニー・ヨン・ディ)水田の除草剤のサンプルを使用することとなり3人グループ5班で実習田に使用することとなったのだが私の班は濃度を濃くしてしまい、苗が黄色くなって枯れたようになってしまい稲は通常分けつは15~20本、後になんとか自分の達のは10本出ました。私たちの稲はなんと穂が大きくなり収穫が一番だったので良いことをしたと褒められました。水田の稗を絶やすことが目的だったので目的は達したし、その上収穫が多いおまけがついたのでした。稲と稗は同じ花粉科植物で稲の細胞と稗の細胞の大きさを比べると、稗は細胞が少なく稲は細胞が多いので2、4、Dの作用が少なくて稲には薬害がなく(少ない)なぜかと判るまで苦労し、その研究を原田先生と共にして失敗が成功のもととなりました。
クラブ活動はバレーボール部で背の高い選手として中・高校ともに活躍し夢中になりました。高校では女学生との対抗試合が楽しかった思い出です。満々提側の校舎でしたのでウシガエルの大きな鳴き声で眠りを誘われたものです。
 当時は食料が乏しく家の米蔵から米を持ち出し鞄に入れ、町で売ってそれでパンを買って食べました。食べ盛りの頃でしたからいつもお腹が減っていました。
その他に授業で一年に一度豚の解体実習があり、豚が察してキィキィ鳴き皆殺生をいやがったので、先生が他の場所で処理して自宅に鶏が常に10羽ほどいて、祖父が鶏を絞めるのを見て解っていましたから。その後私が切り分けました。解体した豚肉を調理して生徒皆で食べる毎年の恒例行事となっていました。

 卒業後、藍農業協同組合に就職して地域に密着した仕事に付き2年、そして一度は大阪で運送の仕事につきましたが。親の年齢もあり再度藍農業協同組合に就職し、購買主任を任されました。その後、藍本出張所の所長→本庄支所の支所次長→藍支所所長→兵庫六甲三田グリーンセンターで生活部部長・経済部部長をして定年。三田市土地改良協議会事務局長・社会福祉法人枚方療育園三田療護園事務長をしました。その後地域の墓の移転など手掛けて来ました。若い頃から地元の消防団に入り三田市消防団第6分団長をして平成3年に消防庁長官賞を受け、平成15年には勲六等瑞宝章を叙勲。

 趣味として以前は船舶の免許を取り友人宅近くの日本海に釣り船を持っていて休日には魚釣りを楽しみました。今は吉川のディケアセンターに週に1回行っています皆と話が出来てうれしいです。カラオケも好きで趣味として練習を時々しています。田は一丁7反あって息子が耕作しています。
土井さん宅の玄関にはきれいな白いカラーやスイレンの花が活けてありました。