有馬郡立有馬農林学校を1903(明治36)年3月に卒業した生徒を第1回卒業とし、県立三田農林学校を含めて通算する(前身の有馬農業補習学校は別にする)。「農林42回」は1941(昭和16)年4月入学、1943(昭和18)年12月卒業である。県立三田農林学校の卒業生としては22回目である。
 2008(平成20)年秋に旭日双光章を受章されたとき、当時の谷郷事務局長と稲葉副会長がお祝いにご自宅を訪問したことは、すでに当会ホームページで紹介している。2020(令和年2)年10月に、1927(昭和2)年生まれの大上さんをご自宅に訪ねたとき、暖かい縁側でパソコンに向かって作業をされていた。2020(令和2)年に自分史を上梓されたので、それを清陵会事務局でまとめ、卒業生へのインタビュー記事として掲載したいことを申し出たところ、大上さんからお許しをいただいた。なお記事には自分史になく事務局で一部追加したところがある。

 大上さんが西谷尋常高等小学校高等科を卒業して、三田農林学校に入学されたのが1941(昭和16)年4月である。当時の三田農林の修業年限は3年、学級数各学年2で計6、全校生徒定員300人である。このときの入試は入学志願者204人、入学者112人。入学者の最少年齢14.1歳、最大18.0歳と幅がある。
 通学は、自宅から国鉄福知山線武田尾駅まで自転車、国鉄に乗って三田駅で下車、学校まで徒歩。三田駅から学校までの商店街は「本屋、日用品店、旅館等が立ち並び、活気に満ちた賑やか」さがあったと記憶されている。国鉄福知山線は、当時は単線で本数も限られ朝夕の時刻は次のようである。
 武田尾発 6:55 → 三田着 7:10 (城崎行)
 武田尾発 7:54 → 三田着 8:10 (城崎行)
三田発 15:30 → 武田尾発 15:45 (大阪行)   
 三田発 16:01 → 武田尾発 16:18 (大阪行)   
 三田発 17:40 → 武田尾発 17:55 (大阪行)   
 三田発 18:21 → 武田尾発 18:37 (大阪行)   
 制服・帽子・鞄等は国防色、頭には戦闘帽、編み上げの革靴、巻脚半(ゲートル)が通学の身なりである。
 校長が稲川照三郎、現在の教頭相当職が相原寅松、教員に藤園丸・池内薫二・安元務・村田英夫・脇文明・篠原至・大西誠治・河田史郎・中島正夫・玉木平三郎・西中嘉悦・山本徳美・前田粂之助・深澤一平、配属将校妙中清祐が入学年の教職員である。相原先生から「上農は草を見ずして草をとる、中農は草を見て草をとる、下農は草を見て草をとらず」という格言を言い聞かせられ、今も記憶されている。この格言は江戸時代の農書『農業全書』、さらには中国の古農書にまで遡ることばのようだ。
 英語の授業は一年生のときだけで、三年生では勉強よりも、出征中の農家への勤労奉仕、「軍馬飼料の備えとして河川堤防の草刈り等」に追われた。軍事教練は現役将校によって「射撃の練習、小野市に所在する青野ケ原の軍事演習等、何時でも戦地に行ける備えとして徹底した軍事教育がなされた」。
 大上さんは1943(昭和18)年12月に卒業された。40回卒業生は昭和16年12月卒業、41,42回生まで続けて3カ月早く12月の卒業である。卒業後、県の農業技術員を養成する県立農林講習所(2年制 昭和10年に開設 明石市北王子町)に入所試験を経て進学された。三田農林卒業の翌年1月に入所、農業指導に必要な学業に専念された。全寮制で、「夏休みを終えて帰寮し、部屋に一歩、踏み入れると、蚤が数十匹足に飛びつき大慌てした」体験もされている。この間も「兵隊に行く備えに一生懸命軍人勅諭、歩兵操典の勉強」をされ、剣道に励み2段に合格された。1945(昭和20)年、講習所がある明石に空襲があり、実家に帰省、8月15日に戦争が終わり、20日より川辺郡小浜村(川面・米谷・東米谷・小浜・上安倉・下安倉)に農業技手として勤務することになり県農業技術員としての第一歩を踏み出された。講習所卒業は、本来、昭和20年12月末であるが、繰上げて9月に卒業となった。

【補足】明石空襲
 総務省によると、明石は昭和20年1月19日、(5月21日)、6月9日、6月22日、6月26日、7月7日、7月28日の空襲をうけ、全市街の約61%を焼失している。5月21日は1機による2tの爆弾投下のようだ。

 戦争終了直後の農業技手は技術指導よりも「食糧難に対応した農作物の栽培に欠かせられない肥料の確保と、戦後の配給物資の仕分け等」や進駐軍の宿舎となった歌劇場の下肥汲取の折衝業務などが仕事になった。
 昭和21年12月からは川辺郡神津村(JR宝塚線の東方)駐在勤務となる。ところが川辺郡西谷村農業会より要請され、昭和22年4月、西谷村農業技手として駐在勤務することとなった。昭和24年4月には国家試験を経て農業改良普及員となり、県の技術吏員として「西谷村農業振興に関わる重要な職」につかれた。農業改良普及員は「農業試験場と連携して、地域の特性を活かした農業振興計画に沿って普及しなければならない」。一村一品推進事業が行われ、西谷村では桃栽培を選ばれた。また、「農地が道に繋がる水田は僅かで、米作に多くの労力を要し、機械化が進んでも使用不便な農地ばかり」の村内の改善のため、農道建設事業を提言された。昭和24年4月からは仕事の傍ら西谷村青年団長を2期4年務められた。
 4Hクラブについては、「育成指導を農林省が提唱し、農業改良普及員が主導して組織育成事業が」行われた。大上さんは自分史のなかでは触れられていないのだが、昭和30年5月20・21日、城崎で開催された第7回普及員研修大会で、「4Hクラブ育成に特に御努力下さった10名」に社団法人兵庫県4Hクラブから感謝状が贈られた。大上さんもそのうちのお一人である。兵庫県4Hクラブはこの10名にアンケートを行い、その回答がかつて公表されている。
 質問「農村青少年をどういった方法でクラブ活動に導き入れて来られましたか。」
 回答「大部分の青年は農業に従事し伝統をほこる西谷青年団に加入しています」。宝塚市西谷駐在の「農業改良普及員として勤務のかたわら、西谷村青年団長として青年運動にも参加していました…網羅的結合である地域青年団と、同志的結合である4Hクラブの性格等一応考えたりした…各部落の青年にそれぞれのプロジェクトを選定させることが最も当を得た方法と一応の結論が出たので、夜間青年団幹部と各部落の青年諸君と座談会等をもちその推進に努力した。こうした動きに呼応し、県ならびに県4Hクラブの主催で第一回実績発表大会が開催され、本地区より代表者が多数参加入賞したので青年のクラブ活動はますます拍車され活発となった」。
 質問「クラブ育成中「こんな嬉しいことが」とお感じになったその事例を一つ。」
 回答(昭和26年度の第一回実績発表大会で)「わが地区から一挙三名の入賞者が出た時の嬉しさが忘れられない」。
 昭和36年、兵庫県技術吏員から宝塚市技術吏員に転職された。翌年に農政係長となり、植木まつりを開催されるなどの取り組みをされた。昭和43年には農政課長に昇進され、46年には再開発課長に。宝塚南口の開発のための用地買収など市の懸案事項に取り組まれた。48年には企画室主幹に補せられ、福知山線複線電化問題関係調整の業務を担われた。「山本、中筋、中山寺地域の高架化と、武田尾駅の設置存続が大きな課題であった」。武田尾駅については、当初計画は、「既存の武田尾駅と道場駅を廃し、新たに西宮山口に新駅設置」であった。
 昭和52年、社会経済部長、昭和55年に用地部長に就任される。「西谷地域の観光農業を推進するため、自然休養村の指定を受けて」事業を推進されたのは社会経済部長のときである。用地部長のときには「1年に小学校を2校、建設し」人口増に対応しなければならず、用地買収の難しい対応を経験される。
 とくに社会経済部長の時代、難聴によって障害者手帳を交付されている。こんなことを自分史に書かれている。「部長室には卓上に専用の電話が設置され、諸連絡は直通電話がかかる。ある日、総務課長が部長室に入ってきて、「部長、電話のベルが鳴っていますよ」。電話のベルが聞こえ無くなった一瞬である」。「その後は電話機を引き寄せて、手で触れながら執務する様になった」。「受話器をとれば聞こえるのでなんとか勤まった」。さらに次のような経験も。「「聞こえにくい部長」と言われ、トイレにまで落書きされ、その陰口等に耐えながら55歳まで勤め退職した」。一方で、いま流行りの言葉を使えば、大上さんに寄り添って仕事が続けられるよう配慮された上司(助役)の存在も書かれている。その上司は、電話のベルの音が聞こえなくなって辞職を考えた大上さんに、「障害手帳を申請した上で職務を継続すればよい」「即刻担当課長に私の手帳申請手続きを指示された」。また1982(昭和57)年3月に辞職した大上さんに市立養護老人ホーム施設長の職を薦められた。
 大上さんは翌4月から働き始め、平成3年3月まで8年間勤務された。「仕事内容は素晴らしく、やり甲斐のある職務」だったといわれる。1年かけて社会福祉施設長の資格を通信教育で取得される。毎月のレポートや3泊4日のスクーリングも課されるもの。大上さんは入所者の処遇改善に努められ、大上さんの退職予定が伝わると入所者が続投の嘆願書を用意するほどであった。
 施設長の時代、読まれた新聞投書をきっかけに神戸市難聴者協会例会に参加される。協会は1972(昭和47)年に発足していた、「中途失聴・難聴者が情報を共有したり、集ったりする場」である。このとき大上さんに運命の出会いがあった。「会場にはオーバーヘッドプロジェクター(OHP)を据え、サングラスをかけた女性が会話内容をロールに書き込み、スクリーンに投射し、その映しだされた文字を見て会議を進めていた」。「私が「目で聴く要約筆記」を初めて見た瞬間である。なんと素晴らしい。これなら会議も聞ける、講演会にも参加できる。「目から鱗」という程感動し気分は爽快であった」。これをきっかけに1985(昭和60)年、宝塚中途難聴者の会を発足させられ、発足とともに会長に就任、2007(平成19)年まで務められた。会発足のころ要約筆記ボランティア養成講座が開設され、要約筆記サークル「宝塚サマリー」が発足する。兵庫県難聴者福祉協会が1985(昭和60)年に発足すると、翌年から平成5年まで事務局長、1996(平成8)年からは会長にもなられた。協会が特定非営利活動法人に改組すると、初代理事長に就任されている。1995(平成7)年1月17日、阪神淡路大震災がおこると、宝塚市総合福祉センターに現地対策本部を設置し、諸団体の支援を得て、被災難聴者の救援活動にあたられた。大上さんはこれまで触れた諸団体以外にも多くの福祉団体の役員をされてきた。各種審議会の委員もつとめられた。これらの活動に対して、厚生大臣賞・県知事表彰・宝塚市長表彰などを受賞され、2008(平成20)年秋に旭日双光章を受章された。
 2004(平成16)年、神戸で人工内耳装用の手術をされ、手術は成功、「会話可能になり進んで人との会話を今は楽しみにしている」。「聞こえは素晴らしく自分の声で歌を唄い声を確かめたり、出逢う人には声かけて聞えの程度を確かめ次回のマッピングに備える努力をしている」。現在、神戸まで自力で通院され、また86歳からはじめられた俳句も句会に参加して楽しまれている。愛用のMacに日々の記録を入力するのも欠かさずなされている。
 最後に大上さんとMacの出会いにちょっと驚きと感動があったので紹介する。1996(平成8)年に全日本難聴者・中途失聴者団体連合会主催シンポジューム「高齢社会における聞えの保障と健康」の実行委員長として準備にあたられた。このとき名古屋市難聴者協会の高木さんが「遠い名古屋から新幹線経由し私の自宅」まで来られ、大上さんが事前に購入しておいたMacに「シンポに係るソフトをつくり我家まで持参し、購入したデスクトップパソコン(マック)に移して」くださったという。その後も大上さんへのパソコン指南役があらわれた。滋賀県の中途失聴難聴者協会の事務局を担当された町田さんが、滋賀県守山から自宅まで足を運ばれ「とりあえずメールの交信ができる様にご指導を頂いた」

(執筆 上垣 正明)