大前さんにはかつて事務局員でインタビューさせていただいたことがある。今回は神戸のご自宅にお伺いし、高校時代のお話を中心にいろいろお尋ねした。
 当時の農業教育の一般目標は「将来みずから農業を営み、あるいは初級技術者として農業に関する職業に従事」するために必要な能力を養成することであった。昭和20年代後半、有馬高校では農業科卒業後、自営する者もおれば、進学してさらに農業を学ぼうとする者もいた。進学では兵庫農科大学へ進学する者が多かったそうだ。

【補足】兵庫農科大学
1949(昭和24)年、篠山歩兵第70連隊兵舎跡に兵庫県立農科大学が開設された。1952(昭和27)年には兵庫県立兵庫農科大学と名称を変更、1966(昭和41)年に神戸大学農学部となった。

 「2,3級下の人で農業科から大阪大学工学部に進学した人もいた。平川先生の自慢話だった」。大前さんも3年生の時、父兄会(いまは保護者面談などと言っている)で、先生から親御さんは進学を勧められたそうだ。「当時篠山にあった兵庫農科大学へ行かせろ」と。長男で兄弟姉妹のことを考えると「家のやりくりが大変で、長男は兄弟の犠牲になっても家の手伝いせなあかん」と、進学はされなかった。卒業後、農業をしながら慶応大学の通信教育をされた。しかし体調を悪くし中途で止められた。2・3年の担任の団野先生は、受講しておりそろそろ修了、卒業だと思われて学校へ来いといわれたそうだ。先生は卒業後も大前さんを気遣っておられたようだ。先生は国語が専門で、大前さんが3年生の時30歳であった。大前さんは高校時代、旺文社の『蛍雪時代』を購読されていた。その購読費は自分で負担されていた。それは三井化学の奨学金を貰っておられ、奨学金から出費。この奨学金は兵庫県下から農業科2人を募集しており、学校が推薦してくれたそうだ。もう一人は県農(当時は兵庫県農業短期大学附属高等学校とよんでいた)の生徒だった。「月800円?だったか、月末に事務室に行って現金で貰っていた」。うどん一杯35円の時代である。ただ貯金はできなかったようだ。
 大前さんの入学された1951(昭和26)年は岩佐修理校長のもと、「総合制」の実をあげるため、1年生は学科混合男女混合のクラスを編成したので「1年生全員と2・3年生の農業科は北校舎」「ホームルームは一緒、授業受けるのは別々だった」「科目も選択が多く、英語も選択だった」と言われる。大前さんは「普通科生徒と一緒に受けた科目が多かった」そうだ。

【補足】授業科目の選択の例
 1953(昭和28)年、大前さんが3年生の時の教育課程では、農業科では「国語甲」「保健体育」「総合農業」が必修で、それ以外の数学や英語、農業の専門科目もすべて選択制である。普通科では「国語甲」「保健体育」が必修で、他の科目は選択である。たいへん幅広く選択を設けていたのが特色である。だから「ホームルームは一緒、授業受けるのは別々だった」。

 大前さんは英語の中林豊市先生(1年次40歳)が印象に強く残っているそうで、「非常にわかりやすかった」と仰る。中学時代は英語に苦労されたようだ。新制の三田中学校として発足した第1期生として同校に学ばれた。このときの体験を語ってくださった。次に記すことは当時の学校批判で語られたことではないので、これを読む方は誤解されませんように。戦争が終わって数年経ったころの学校の一面として当時の雰囲気がわかる話としてお読みください。「英語の先生は大学に在学したままで、学校で英語を教えていた。当時ああいうことが通用したんやな」「授業は、暗唱してこいと教科書を何度も写してこいの2本」「暗唱してきたことを順番に言わせる。言われなかったら、前へ出して叩く。暗唱できてなかった連中をグラウンドを走らせる」「前の者が叩かれて、次自分の番になったら震えていた」。この若い熱血先生の授業展開で大前さんは英語以外の科目の成績は良好なのに、英語は伸ばすことが出来なかったようだ。中林先生の授業体験と併せ考えて「先生本人が勉強してなかったら、生半可な先生に教えられるほど生徒は惨めなことはないと思ったなあ」と述懐された。
 同様の趣旨で県庁に入ってから三重大学農学部(旧三重高農、現在は生物資源学部に改組されている)に留学したときの体験を語られた。前身の高等農林の時代、三重高農の卒業生は官公吏に就く者が多く、その割合は各高等農林のトップであった。土壌学・植物栄養学・農芸化学の先生の講義は「こんなにわかりやすい講義はなかった」。学生と一緒に受講してテストを受ける。テストを終えると教授は成績上位の1~3番までの氏名を発表される。その名前の中に前後期とも大前さんの名前があった。「「きわめた人は難しいことをわかりやすく話す。お前もわかりやすい話ができるようになって指導者や」と父親に言われた」。
 新制の三田中学校に入学するとき(1948(昭和23)年4月)の制服の話を教えてくださった。「戦後の衣服も貧しい時代、中学校入学時は制服を用意しろといわれ、三田の大上洋服店(車瀬橋近く)へ買いに行った」。「衣料切符を持っていって、当時は買うのに切符が要った。ひとり分では足りないので家族に割り当てられたのを持っていった」。衣料切符は太平洋戦争中の1942(昭和17)年に施行された衣料の配給制度の切符である。戦争末期になると極端な物資不足から切符があっても買えない状況となり、戦後も1950(昭和25)年まで続けられていた。「ゴワゴワの制服でじきに穴があいてしまう」。「高校に入学したときは、制服は言われなかった。用意できる子ばかりではない時代やから」。「通学かばんは、軍隊が使っていた“敗戦かばん”。斜めがけしていた」。「復員した人が持って帰ったり、闇市に売っているものを買ったり、貰ったりしていた」。
 大前さんは1952(昭和27)年後期(2年生)、1953(昭和28)年前期(3年生)に生徒会長を務めておられる。「わたしは立候補したのではない。改選の時期に学校に行ったら大前は会長候補だと貼ってあった。上級生の5回生が勝手に貼った。2回目も皆が名前を出して選挙に出ることに」。生徒会長には3人が立候補、他の役員も複数候補が立った。選挙活動は、南校舎にも行って各教室をまわって演説。会長候補の他の2人は普通科、クラス数も普通科が多いが当選された。
 当時学校の組織のひとつに生徒会指導部があった。1953(昭和28)年度は主任が中林先生、平川・辻前・中ノ・石原・家本・東浦先生がメンバーである。生徒会組織は次のようになっていた。

 総会⇔評議会⇔執行委員会⇔常置委員会・文化部・体育部・職業部各クラブ

「生徒会の役員が専用に使える部屋があった。“評議会室”で講堂の東側、便所の近くやった。この部屋に各クラスの会長と生徒会役員が集まると一杯になった」。現在はクラス委員長と呼んでいるが、かつてはクラス会長と呼んでいた。クラス会長の方が使用期間は長いようだ。大前さんは“評議会室”と仰ったが、たまたま大前さんが3年生の時の建物の配置図が残っている。“講堂の東側、便所の近く”に当たるところには“生徒会議室”と書かれている。これだろう。当時は選挙が終わり、新執行部が決まると生徒会役員と各クラス会長が集まって北校舎玄関前で集合写真を撮っており、このメンバーが評議会を構成する。大前さんが写っている集合写真をお持ちである。
 「その当時の生徒会活動の目標は校風の樹立であった。校風の樹立が生徒会活動の中心だった」。有馬高校は1948(昭和23)年9月に、三田農林学校(北校舎)と三田高等女学校(南校舎)が合併してはじまる。大前さんのころは合併して間がない時期だった。「合併によって新設校ができたわけで、ここで伝統はいったん途絶え、新しい校風を創ろうという生徒会役員の間でひとつの大きな理想、意気込みがあった」。次のようなことも考えられたそうだ。「一番ええのは甲子園に出ること。全校生が一致する。新しい校風がそこに生まれる。一つの方法や」と当時話し合った。
 「新入生歓迎会、先生の転勤に伴う歓送迎の会、討論会、弁論大会、体育祭、文化祭など多くが生徒会の自主運営で、先生もかかわってもらうけど、生徒が自主的にやっていた」。「これらの会、催しには常置委員のひとつ集会委員が中心になって人を集め、監督などを担っていた」。
「新入生全員を集めて、生徒会長が歓迎のことばを述べる」。「先生の転勤がある。生徒が集まってお礼のことば、送ることば、歓迎のことばを述べる」。新入生歓迎会も先生方の歓送迎会(現在は着任式・離任式と名づけている)も運動場でしていたそうだ。「有高には生徒全員が入れるところがない」(講堂はあったが北校舎は78坪、南校舎は61坪)。三田小学校の講堂を借りて行う行事もあった。
「討論会は1,2,3年生全員が集まって、三田小学校講堂で。各クラスで選ばれた代表がチームの意見を戦わせる。“第三次世界大戦はおこるかどうか”、このテーマにそって“おこりうる”、“おこらない”の2つの立場の者が争う。弁論大会は個人の意見、討論会はチームの意見。すごかったですよ」。
「弁論大会は三田小学校講堂を借りていた。審査に先生方に加わってもらう」。校内弁論大会の第1回は、大前さんが1年生の時、1952(昭和27)年1月26日、三田小学校講堂で開催された。当時の「有高新聞」が、「かねて計画中であった学藝委員会及び文学クラブ共同主催の第一回校内弁論大会が…二十四名の弁士をもって開催された」と伝えている。弁士は、全日制だけでなく、当時定時制の長坂分校や吉川分校などからも選ばれている。学藝委員会は生徒会組織の常置委員会のひとつ。有高の校歌の作詞者神内佳子さんは文学クラブのメンバーであった。ただし、前年度に卒業されているが。
「運動会は体育祭と呼んで一大行事やった。生徒会で演目(種目)を考える。テント張りも生徒会。運営は先生にあまり世話にならなかった。先生もあまり口出しもされなかった」。仮装行列はクラス対抗、お持ちの写真を見ると随分手の込んだものである。2年7組のときは「東北の嫁入り」、3年6組のときは「お猿のかごや」である。「東北の嫁入り」は、飾り付けをした馬に花嫁を乗せて、ところどころで長持唄を唄いながら嫁ぎ先へ向かった嫁入り行列を再現したもの。馬に代わり本物の黒牛が写真に写っている。「お猿のかごや」は、戦前に作詞作曲された童謡「エッサ エッサ エッサホイ サッサ お猿のかごやだ ホイサッサ 日暮れの山道 細い道 小田原提灯ぶらさげて…」をもとにしたものだろう。写真では10匹の猿の駕籠屋が写っている。3匹は小田原提灯をもっている。しかも10匹全員が町内の小谷屋呉服店(本町通り)の名前が入った法被を着ている。
「体育祭の最後には生徒会長がタオルを振って、それに合わせて全員で校歌と応援歌を合唱した。タオルがタクト(指揮棒)代わり」。
「いろいろな機会に生徒会長として挨拶する。いまの○○○○のように書いてもらったものを読むのとは違う。自分で考えて原稿なしで挨拶する。もちろん卒業式の答辞・送辞、全部自分でやる。先生にお世話になったことはない」。○○○○は放送禁止用語ではないが、事務局判断で、いま流行りの何者かへの“忖度”をして時代錯誤の伏字にしておく。
「生徒会同士の交換会で篠山鳳鳴高校へ行った」。「リーダーシップの講習会も自主的にやっていた。学校の中で、生徒同士で、生徒会主催でやる。リーダーとはどういうものかと」。このとき大前さん自身は準備を進められたが、農業科の夏季体験実習で静岡に行かれ参加できなかった。
「生徒会役員の中には、大阪府下の初代の小学校女性校長になった人、大阪府下の初代の中学校女性校長になった人がいる。そしてこの二人が大阪府の女性校長会の会長と副会長となった」。
「卒業式はわたしらのときから三田小学校講堂になった。先輩は北校舎で卒業生と評議会のメンバーが入ると座る場所がなくなる。卒業証書も“以上総代”やった」。大前さんのときから「一人ひとりが卒業証書をもらった」。「“優等賞”や外郭団体からの表彰もなかった。卒業生本人の卒業証書の裏に“あなたは成績優秀でした”などと書かれている。証書もらって裏向けてわかる。本人しかわからない」。
 夏季体験実習は三年生の時、静岡東部の農家へ。三島まで6人で行って、酪農で有名な函南町の現地で3軒の滞在農家ごとに2人ずつ分かれた。大前さんら2人は三田(みた)さんという農家で世話に。「牛を飼っておられたが、牛の手入れは1回もやらせてもらえなかった。昔のころころ押す草取機で毎日草取り、田んぼに施す堆肥作りに堤防の草刈り。昼間のおやつがじゃがいもの蒸したもの」。研修を終えて帰省する6人に三田さんらがくださったのは五つ玉の大きなそろばんだったそうだ。「農家はこれからそろばん勘定ができるものでないといかんと」。三田さんから「ここまで来たんやから千葉大学の園芸学部を見て帰れ」と勧められた。1909(明治42)年創設された千葉県立園芸専門学校が前身で高い評価があった。静岡の三島から千葉の松戸まで、生徒たちだけで列車で行って、大学の農場をみて、食堂で食事をされた。このとき食堂に食べに来られていた年配の男性から「食器を揃えて出て行けと怒られた。あれはびっくりした。行儀作法のひとつを教えられた」。大前さんは、三田さんは「函南町の教育長を務められた人間的に魅せられた人物。その後も何回も訪ね、手紙の交換もやってくれた」そうだ。
 大前さんが入学したころ「まだ城址がわかるように残っていた」。三田上水道は古城跡に1937(昭和12)年につくられていた。「運動場の向こうに上水道がみえるようになったのは運動場の土地を下げたから。在学中に1段下げた。この土木作業を生徒たちが手伝った。業者が作業してくれたがトロッコへの土入れは生徒がやった。レールを敷いてトロッコが走っていた」。「運動場は1年間だけで整備されたものではない。周辺から竹を伐ったり、広げたり。いま体育館があるところは運動場やった。あの辺見みたら思い出がある。建物があるところは土取ってないから運動場より一段高い。集会ではこの上にあがってあいさつした。演壇なんかなかった」。この段差のところに石垣が積まれることになる。「3年生の時、石垣は生徒会が寄附してつくった。工事費を生徒会が寄附した。工事に協力したけれど出来上がる前に卒業した。学校を訪ねた時、この石垣がなくなっている。残念に思う」。1954(昭和29)年度の生徒会役員選挙立会演説会の写真をみれば、この石垣がはっきりと確認できる。丸みをおびた大きめの石が1m数十cm積み上げられている。写真右の演壇の背後に見えるのは教室棟の壁面に取り付けられたものである。大前さんが1年生の時は7組でこの壁面裏の教室で過ごされた。なお大前さんのときは役員選挙のため写真のように全員が集まることはなかったそうだ。左後方に見えるのは職員室のある建物で、2階に農業科が入っていた1教室と図書室があった。

         生徒たちが腰かけて記念撮影


「運動場の周辺に竹藪があった。昔、三田農林の先生で竹に詳しい先生がおられた。ブロックで区画つくって、いろんな品種の竹を収集して植えていた。それをみんな抜いてしまった。いまやったら貴重なものや。竹はそこらへんにあるものだが、学校に行くと違う品種があった」。話は少し三田農林のことに及んだ。「昔の三田農林の卒業生に言わせたら、学校はいろんなことを学んだ。知らない、見かけたことがない、珍しいものがたくさんあったという」。「宝交早生をつくった(亡くなった)藤本治夫さんは三田農林に入ってはじめてイチゴをみた。それからイチゴに取りつかれたという」。

【補足】藤本さんは農林38回の卒業生(昭和15年3月)である。宝交早生は宝塚で交配されたイチゴの代表的な品種のひとつである。藤本さんの研究の成果である。大前さんは藤本さんを清陵会ウェブページで紹介されている。「三田農林に入学された当時、学校の農場にはレタス・セロリ・花野菜などの見たことのない西洋野菜と珍しい石垣イチゴが展示栽培されていて、その中のイチゴに取り付かれたということだ」。「学校の農場に展示されていた各種の野菜は、試験研究に携わるようになってからも大変役立ったそうだが、特にイチゴ研究の原点は学校の農場にあったといわれる」。藤本さんが亡くなられた際に、遺族の要請で大前さんは弔辞を述べられたそうです。

 これらの話とヨーロッパに行かれた体験と重ねて次のような話をされた。「ドイツのバイエルン州の州立農業大学に、ドイツにおける農業マイスター制度の調査に行った。ドイツはすごいなあと思った。ドイツの農機具メーカー、家庭用品メーカーは新しい製品、トラクターなどの新しい農機具、炊事用の器具、これら一番進んだものを学校に寄附していた。農業高校は大学に併設され、寄附されたものが農業高校に備えられている。トラクターに乗らせてくれたが、それまで乗ったことのない大きなものだった。だからドイツは農業高校に行くと一番進んだ生産機材がある。いまでも日本がそういうことをやってくれたら、生徒が集まるのでは」。
 大前さんの在学中にはウドが栽培されていた。「誓文払いのころにウドを掘る。寒くなってから。ウドを掘る経験もした」。農場での作業について次のような体験もされている。「学校は夕方5時、6時には終わってくれない。明日天気が悪そうやったら残って作業せえ、タマネギ植えとか。夕方に学校の周りの竹藪にカラスが寄ってきて騒がしいころに。寒いのに植え付けしろと。腹が立ってきた。そのとき白菜の大きくなったのを踏み潰した。ちょうど後ろに先生が立っておられて…。今考えると、作業の適期を知らんといかん、適期作業を教える教育の一環やったと思うけど」。
 大前さんは学校生活では生徒会に重点を置かれていたようだが、農業クラブ関係であろうか、「嬉野の研修所(当時加東郡社町、嬉野公民研修所とよばれていた)も何回か行った」といわれた。ほかに当時はお寺が研修会でよく使われたそうだ。「当時は大きな建物がなかったので、寺は境内が広い、仏像のある広い部屋がある」。4Hクラブの催しにはよく使われたという。

           嬉野の研修所講堂での研修会

加工室1棟があり、加工クラブもあった。味噌・梅干し・ケチャップ・ラッキョ漬・福神漬・ジャム・マーマレード・ソース・醤油などがつくられ文化祭の品評会場で販売もされ好評だった。大前さんらはこの加工室に忍び込んだことがあるという。「福神漬、ミツバチの蜜、腹減っているから。ドキドキやったけど、スリルもあった。藤江督三先生が加工の先生でつくっていた」。藤江先生は、現在校門近くの市道に植わっているイチョウ(並木)をつくった先生である。道幅拡張工事などのため伐採されたものもあるので当初はもっと多かった。
 農業科の行事“早苗ぶり”についても教えていただいた。「早苗饗は豊作祈願の神事であると同時に、田植えという重労働を終えての(共同体を挙げての)慰労会でもあった」と辞書類では紹介されている。「田植えが済んでからおこなった。農業科では豚と鶏の解体は必須ですから、豚を殺して食べたんと違うかなあ」。「収納舎があった。大きな建物で、収納舎でやったと思う」。


中央が収納舎、その右が加工室  収納舎の左が農場の助手の方々の事務室(農場の管理室)

 次の写真は農場の一部(昭和29年)で、中央もっとも奥に三田天満神社が見える。百葉箱の手前にある長細い堀にまつわるおもしろいエピソードを教えてくださった。


「農場から帰ってきて堀で農具を洗っていた。そこでえらい怒られたのを思い出す。事務室にいる助手から「はよあがれ」と言われる。「あがれ」と言われても何のことかわからない。“どこへあがるんや”。助手の先生に怒られた。仕事を終わって帰って来いということらしい」。この先生を調べると、有馬高校3回生で卒業後助手をされていた方のようだ。
 「農場に豚舎を建てるとき、基礎工事を手伝わされた」。
 次の写真右奥に見えるのは「農産製造室・農具舎」とされる建物である。「鍬とか長靴、地下足袋などを仕舞っていた。作業服に着替えるのもここだった」。

 「高校では、原田春男先生から教えてもらったのが農業気象。原田先生が淡路農業高等学校校長の時代、わたしが淡路の志筑が新任の地で、春先に校長官舎へ訪ねていった」。「農業改良普及員をしていると県内各地に赴任することになる。その土地土地にその地域を代表する人、信望の厚い人がおられる。行く先々でその人に必ず出会えと仰った」。「県内ほとんどをまわったが、行く先々でその教えを守った」。原田先生は1967(昭和42)年に有馬高校校長として赴任されることになる。
 高校時代の話の最後にこんな話を。「(普通科の)進学する者は時間外に教えて、農業科は外に出て実習してこいといわれてクーデターを起こした」。「わしらは仕事しに学校に来とるんと違う。進学する者に勉強教えるんだったらわしらも同じようにやってくれ。(規定の)時間外まで実習はしたくない」と。農業科にも同じようにやってくれと抗議文を作られたようだ。
 勤められてからの話を語ってくださった。NHKのラジオ番組で、朝の5時15分から「早起き鳥」が放送された。この番組を18年間やられたそうだ。大前さんが30~40歳代のこと。農事番組で、地方の農村の状況、作物の育ち具合、催しなどが放送される。月に原稿を5,6本、NHK神戸放送局に送る。その中からNHKが選んだものに問い合わせがくる。神戸放送局に行ってマイクの前で生放送を行われたことも。「反響はすごい」と言われる。「韓国の農業高校の先生が花の種を送ってくれ」。「梅の木に生えるサルノコシカケを神戸の農家が育てるようになった。当時癌に効くといわれた。これが放送された朝、事務所に行くと島根県の人から電話がかかってきた。癌をなんとか治したいから世話をしてくれと」。神戸新聞に頼まれて一か月紙面批評を担当された。雑誌で花の講座を1年間担当されたことも。どうもこれらは活動の一部のようで、興味は尽きないが、インタビューが長時間に及び、ここで失礼することにした。玄関先まで見送ってくださりありがとうございました。