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中嶋 宏次さん (有高8回)
家が農家なので、祖父や母親より「お前は長男だから、三田農林学校へ行って農業を勉強して、家業を継ぐんやで。」とよく言い聞かされていたので、自分もそのつもりでした。父は、農業しながら役場に勤めていたので何も言いませんでしたが、祖父や母は私が早く農業を継いで欲しかったようです。

そのようなこともあり、昭和28年に有高農業科に入学、得意な科目は歴史(日本史)が好きだったので選択しました。在学中の思い出はたくさんあり、農業当番、夜間宿泊しての育雛(いくすう)当番、三田大池での鯉獲り、農場の作業、収穫野菜を町内へリヤカーで運び販売実習、先進地体験実習、文化祭の演劇、農産物品評会、県下農業高校との交流会参加と多くあります。

一年生の時は、普通科、家庭科、農業科、園芸科が男女混合で8クラス、選択教科制と必修制がありそれぞれ授業のときだけは分かれて受講しました。二年・三年生の時は、農業と園芸科は北校舎(旧農林学校舎)で、普通・家庭科は南校舎(旧女学校舎)であり、南校舎には理科学、化学、物理、実験室があり、選択している生徒はその教室に行くのが、(一年生の時に一緒だった女生徒に会えるため)楽しみだったようで、その時は農作業着を脱ぎ制服にちゃんと着替えて、頭髪の乱れを直して出かけたようです。

農業当番の思い出としては、夏休み中の当番のときに収穫した農場の野菜を三田の町内へ販売する実習があり、予定より多めに売れた場合、その分は自分たちのものになったので、キャンディーやパンなどを買って食べました。また、放課後の当番のときに、豚や牛にやる飼料の鍋の中に、倉庫にあったさつま芋を入れて炊きあがったのを食べたりしました。
お腹が空いていたので非常においしかったですが、こっそり食べていたのを先生に見つかり、もう少しで停学処分になるところでしたが、誰かが代表で謝ってくれて、なんとか許してもらえました。(当時の生徒手帳には「農場生産物は公のものであるから、無断でこれを処理してはいけない」と規定されています。)

修学旅行は東京方面と九州方面に分かれ、九州を選びました。この時初めて写真機(二眼レフ)を使い、いつの間にか卒業アルバム委員になっていました。
その他では、図書委員を3年間しました。当時は映画の全盛期で、図書委員の仕事として三田劇場や三映会館の割引映画券の発行依頼によく行かされ、学校に持ち帰り生徒に配布したことを思い出します。
また、図書館の本賃借用務や、本の修繕等を助手の先生とよく行い、本の分類なども習いました。

卒業後は家業(農業)が待っていたので、大学進学や職探しも無かったので、三年生の時は気楽な気分で、学生生活は今にしてみれば楽しく有意義なものでした。

その後 農業をしながら、昭和47年7月から三田市民会館業務補助員としてお勤めになり、昭和52年から三田市事務員として、平成10年3月まで市役所の総務部総務課や総務部税務課などお勤めになりました。

現在は、有高第8回生(昭和31年卒業)「AHS8・二十日会」の会長も昨年よりされております。二十日会では、50年前以上仲間が数年前頃から毎月二十日に集まり、会員の幼少時代の思い出や震災の体験、亡くなった仲間への追悼などを綴った手作りの会誌「生きてきた生きてゆく証」も発行されています。(平成22年1月21日付の神戸新聞にも紹介されました。)

ご趣味は旅行で、年間5回は日本各地へ行かれています。歴史が好きなのでお城を見学するのが好きだそうです。老人会の会長(平成20年度より2年間)や、郷土文化研究会でもご活躍で、現在は息子さん夫婦と2才の可愛いお孫さん(女の子)に囲まれ、「孫の成長が楽しみです。」とお話しいただきました。
大変驚いたのですが、当時の生徒手帳も綺麗なままで保管されており、貴重な資料として丁寧に拝見させていただきました。

(文責:中嶋 宏次・谷口 真弥)

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