クリのように甘いカボチャ 「さんだくり南瓜」を栽培され、新聞にも紹介。
 
私たちが高校に進む時代(昭和32年頃)は、農家の長男であれば有馬高校の農業科
か園芸科に進むのが常で、私も農家の長男だったので、農業科に入学しました。
当時の有馬高校には、他に普通科、家庭科があり女生徒が多く在籍していましたが、
農業科、園芸科には女生徒はいませんでした。県立高校の為、校区が広く同窓生には
伊丹や宝塚からや神戸市の箕谷や八多町、美嚢郡吉川町から通学している者も多く
、八多や吉川からは自転車通学をしていました。
1年生の時は各科混合でクラス分けされていて、2年生からは専攻した科に分かれました。
 高校時代の思い出はいろいろありますが、私は1年生の時は品行の良い生徒ではなく、
同じような友達がいて早弁(昼食)をして、昼食時間には無断で早退することがよくありました。何度か職員室で説教された記憶があります。そんなことをしながら2年生になり、担任の石原嘉寿巳先生や、新しくできたフィールドのハンドボール部に入部して、顧問の西山先生に出会って普通の生徒に戻り卒業出来たと思っています。

 当時の農業科は、乳牛や豚を飼育していて、生徒は夏休みの課題で、家で「干し草」
を造り約1m角のサイコロ状に束ね、自転車の荷台に載せヨロヨロしながら学校に持って
行きました。

高校生活の中で、はっきりと覚えている思い出の一つは、新しくできたハンドボール部での
県大会出場です。(当時は高校のハンドボール部は少なく、地区予選なしで県大会に行けました)
試合は30分ハーフの前半、後半30分戦で行います。一回戦相手は明石高校だったと思いますが、前半を0-0で終わり後半の終了寸前、我が部のエース八多中学出身の広畑君の
シュートが決まり、1-0で部結成以来初めて勝利したことです。それまでは地区内の練習試合でも勝ったことが無く、まさか県大会で初勝利を挙げられるとは誰も思っていなく、皆で
大喜びしたことです。ただ2回戦では大差で負けました。
もうひとつの思い出は、3年生の体育祭の時、当時大ヒットしていた歌謡曲でペギー葉山さんが歌う「南国土佐を後にして」にのせて、同級生の吉田君と2人が女装(日本髪・振袖)して農業科全員で踊ったことです。女装は近くの美容院が無償でやってくれました。

そのほか、園芸科が育てたシクラメンの鉢植えを、3年生の課外授業としてリヤカーに積み、
街なかに売りに行ったことがありました。一鉢100円で売るように言われていたのを、大きさで100円から300円にランク分けして売り完売。一鉢100円計算で学校に渡し、差額を持ってみんなで近くのパン屋に行き、パンを食べたことを思い出します。先生方も解っていたのではないかと思いますが、咎められませんでした。

3年生の3学期は殆ど授業が無く、自動車学校に行き免許を取得することも可能でした。
卒業後の進路は、農家の後継ぎと決まっていても、父母が健在な者は就職する者も多くいました。私は父が早死にし祖父母に育てられたこともあり、就職はせず、牛を使って田を耕起したり代掻きをして稲作を三年ほどやりました。牛の扱いは難しく、こちらの思いとおりには動いてくれず、何回も牛と喧嘩したことが懐かしく感じます。
その後は機械化が進み能率的になったことで、時間に余裕ができ、私は知人の紹介で
農閑期に大阪まで片道2時間余りかけて電気工事会社にアルバイトで勤務しました。このアルバイトを5年続けた後、尼崎にあった娯楽運営会社や、自宅近くのゴルフ場に事務職で就職し、定年まで兼業農家を続けました。

戦中生まれの私達は、戦争に至った原因はわかりませんでしたが、木炭バスが走ったり、わら草履で小学校に通ったり等、敗戦後の貧困や荒廃は経験しました。しかし日本の復興力は著しく、高校生の頃には復興が進み、卒業後の昭和39年には東京オリンピックを開催するまでになったことや、その後の経済発展、そしてバブルの崩壊などを経験しました。

私達、農業科、園芸科の12回卒は、20年ほど前から3年に一度同窓会がありました。
昨年はコロナの影響で中止となりましたが、25年ほど前から12回卒の有志で年3回くらいのペースでゴルフコンペをやっています。
私は定年退職後、野菜作りを始めていてJA直売店「パスカル」に僅かながらも出荷するのを楽しみに過ごしています。

(執筆 谷口真弥)