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菖蒲 保男さん(農林40回)

私の人生を振りかえって

私の三田農林学校時代は大東亜戦争中であり、昭和16年12月、4か月早く繰り上げ卒業となりました。2~3年生当時は、傍示山の開墾、甘藷等の栽培や近隣農家の応援など食糧増産に明け暮れ、学校でもきびしい妙中教官の軍事教練などが行われていました。

卒業後は、恩師大西先生の教示で、満州国の畜産振興を夢みて満州国政府興農部(日本の農水産省)に就職し、関東軍へ肉類を供給するべく満州国内の畜産の指導に当たりました。

昭和20年3月(満19歳)、繰上げ徴兵検査を受け、現役入隊。幹部候補生としてソ満国境近くの最前線で訓練中にソ連軍の侵攻を受け、約1週間交戦したが、戦力の大差で大敗を喫し、両手をあげて投降しました。仮収容所に入り武装解除を受け、約10日後、日本に返すと言ってシベリヤ鉄道の貨車に詰められたが、旧満州国からバイカル湖畔を越えて、昭和20年10月末、アバカン湖の捕虜収容所に収容されました。それから約2年10か月の間、炭鉱内で採炭労働に従事し、作業は重労働、食事は1回乾パン1個の状態で体力が続かず、収容者約1,000人のうち4割以上が栄養失調等で死亡しました。昭和22年4月、日本への帰還指示があり、シベリヤ鉄道でナホトカ港へ。3日間の共産党教育を経て、引き上げ船にて昭和22年5月19日、舞鶴港に上陸。やっと日本に帰れたと安堵しました。

帰国後は生家で農業をしつつ静養していたが、母校(旧三田農林)舎監として大変お世話になった恩師藤園丸先生の助言で、県の農業改良普及員として採用され、旧三輪町駐在で約10年間農業の指導に携わりました。その後、恩師原田先生の助言で県本庁の農林部に転勤し、農地開拓課→農政課→県土地開発公社を経て、最後は三田市街地の中心を流れる武庫川の拡巾大改修事業のため三田土木事務所に帰りました。市街地内の約100戸の立ち退き、河床約4メートルの掘り下げ、川幅の拡巾などの難事業であり、又、反対期成同盟との対話交渉でも難航しました。しかし、最終的には協力を得られ、工事は順調に進み、豪雨による市街地の大水害もなくなりました。今だに武庫川を見ると、苦労の甲斐があったと感慨深いものを感じます。

県退職後、第二の人生として民間企業に移り、公共補償業務(大工場などの移転、漁業・農業・水利補償など)を全国に亙って約20年間経験し、その間、国外(ドイツ、フランス、イタリア他)の補償業務を調査して研究しました。

 旧満州国の行政、ソ連の抑留生活、帰還、兵庫県職員としての行政経験、民間での公共補償業務経験──長い人生を振り返ってみると、旧三田農林学校で学んだ基礎知識が、私の人生に大きく役だったことを改めて感謝しております。

菖蒲保男(旧姓:稲畑)