person藤本 治夫さん(農林38回)

農業改良普及員の私にとって、最も尊敬する先輩が藤本さんだった。何しろ彼は全国のイチゴ産地を席巻した「宝交早生」品種の育成者だのに、驕ることなど微塵もない温厚な人柄で、誰にでも気軽に話しかける研究者だった。

この品種は、昭和32年、兵庫県立農業試験場宝塚分場で生まれた。昭和27~28年頃、阪神間のイチゴ産地では、「アメリカ」種に替わる病気に強い多収の新品種の育成を、と多くのイチゴ栽培農家が切望していた。これに応えて、昭和29年より、親品種の収集に努め育種に備え、32年、交配の実生の中から優れた1株を見出し、選抜に成功する。これが後の「宝交早生」である。

この研究に携われたのが藤本さんである。「宝交早生」は栽培が容易で、食味がよく、各種作型に適応する特性を有している。昭和30年代後半から全国的に普及して、50年代後半には全国のイチゴ作付面積の55%に達した。

イチゴ産地では、何とか早く「宝交早生」を導入しようと苦心したものだ。私が淡路に赴任した時のことだが、岡山県園芸連は早朝密かに、淡路の農家から「宝交早生」を譲り受け持ち去ったことがある。

海外でも注目され、ご本人が退職後韓国を訪れた時、その視察先のイチゴ産地だけでも4,000haの「宝交早生」が栽培されていると聞き、驚かれたそうだ。県下の農業者のリーダーを引率してヨーロッパ農業視察をされた際には、オランダの試験場で案内してくれた研究員が、藤本さんが「宝交早生」の育成者だと知っていて、みんながびっくりしたという話もある。

藤本さんが研究対象にイチゴを選ばれたのには次のような理由がある。三田農林に入学された当時、学校の農場にはレタス・セロリ・花野菜などの見たことのない西洋野菜と珍しい石垣イチゴが展示栽培されていて、その中のイチゴに取り付かれたということだ。又、赴任された宝塚分場は、鳴尾イチゴ産地の中に位置し、イチゴに係わる農家の問い合わせが多く、自然とイチゴに関心を持つようになり、ご本人の生涯の研究テーマとなったと話される。

学校の農場に展示されていた各種の野菜は、試験研究に携わるようになってからも大変役立ったそうだが、特にイチゴ研究の原点は学校の農場にあったといわれる。

退職された後も全国のイチゴ関係者(試験場研究員、市場人など)との文通が絶えず、今も多くの人との交流が続いている。春先の朝取りイチゴが出始めると、「宝交早生」種が主流になり値上がりする。そんなイチゴを眺めると懐かしく、今では私の生甲斐になっていますと、変わらぬやさしい語り口が印象的だった。

(文責:大前穣夫)