親谷さんは、開口一番、「わたしらは国民学校で入学して、卒業して国民学校がなくなった。」とおっしゃった。親谷さんは旧姓は異なるが、この原稿では親谷さんと表す。
 親谷さんは、1941(昭和16)年4月、藍国民学校に入学された。前月に小学校令を改正して「国民学校令」が公布され、4月1日から施行された。これによって「藍村立藍尋常高等小学校」は「有馬郡藍国民学校」となった。国民学校は、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」(文部省『学制百年史』)させることを目ざした。親谷さんは国民学校の最初の入学生だった。
 「池田進二さんが建ててくださった、木造だが近代的な二階建ての建物、車寄があった」。「藍本の国鉄(現在JR)の駅近くに、池田医院と古田歯科が横並びにありました。二人とも小学校の校医さん。娘さんたちは同級生やった。医者であった池田さんが村長に。」
 同校の50周年記念誌によると、池田進二さんは1930(昭和5)年、33歳で藍村の村長となり、藍村北尋常高等小学校・藍村南尋常高等小学校・藍村西尋常小学校の3校の統一に着手。1935(昭和10)年藍村立藍尋常高等小学校が現在地に創設された。講堂も同年に落成した。車寄(「玄関に設置され、自動車の乗り降りに使える庇付きの出入り口」)のある藍村自慢の校舎であった。50周年記念誌は、「池田村長は有馬郡内の「カミソリ」村長と云われ、その手腕功績を轟かせられ、村民もこれを誇りとして心機一転開校以来、村民一丸となって着々と成果を挙げられたのです」と最大の賛辞を贈っている。次の村長と車寄の写真は50周年記念誌から転載。

 国民学校は8学級編成でスタートしたが、50周年記念誌によると疎開児童が増え、学級数も増えて行った。
1943(昭和18)年 4月  9学級   1945(昭和20)年 4月  14学級
1943(昭和18)年 9月  10学級     1945(昭和20)年 9月   16学級
1944(昭和19)年10月 12学級   1945(昭和20)年10月   17学級
 親谷さんは「一年、二年、三年は男女混合のクラス。四年になると疎開の子たちが増えたから男女別々のクラスに。」学校は四年生のとき、1944(昭和19)年10月から「初等科四年と五年を男女別学級と」(50周年記念誌)した。「男組、女組」といっていたそうだ。「半分ぐらいが大阪などから疎開してきた人やったと違いますか。」「4年女組は、担任は杉原先生、五・六年女組は高石先生で持ち上がり。卒業するまで男女別々のクラスで勉強した。」
 「五年生の5月、大阪陸軍造兵廠が移ってきた。」「高等科の人は運ぶ作業を手伝った。」「1階が軍需工場になり、各教室は60人ぐらいに。一つの長めの机に椅子2つ置いて使っていたが、2つの椅子の間に板を置いて3人が座る。だから必ず座布団が要ったわけ。」
「もともと2人がけの机を3人で使うことに。」
 50周年記念誌の年表に次のようにある。
  1945(昭和20)年5月18日 講堂を大阪陸軍造兵廠疎開工事関係者宿舎に、理科室を同技術科事務所に転用。工作室を日本発送電の事務所に転用。
  1945(昭和20)年6月20日 一階校舎全部と校地の一部を転用して二七日より大阪陸軍造兵廠精密工場化工事に着手。
  1945(昭和20)年8月15日 終戦に伴い、工場経営は全面的に中止。
 「実際に稼働していたのはそれほどの期間でもない。」「工員さんが大川瀬のカミ・シモのお家で寝泊まりされていた」そうだ。「大川瀬の自分の家にも工員さんが3人、カミノマ・シモノマに泊まっていた。」「神戸のそごうの部長の奥さんが、赤ちゃん連れてナカノマの狭いところに終戦までおられた。ときどき部長の旦那さんが来ていたので、多いときは6人を受け入れていた。」「工員さんは朝ごはんを食べて行っていた。家でニワトリを飼っており、玉子はごちそう。そごうの部長さんが来られるというときは、朝からニワトリを絞めてごちそうする。」
 「家族で家にいたのが祖母、父、母、私、弟。」「一番上の兄は少尉さんになったばかりで山梨にいた。軍刀を父が調達して送ってやっていた。二人目の兄は、千葉の館山の海軍砲術学校の学生やった。三人目の兄は、兵庫師範から学徒動員で高砂か相生あたりの工場へ行っていた。」「父は国鉄に勤めていたが辞めて農業をしていたところ、三木の方にかり出されて行っていたことがある。」工員さんらと合わせると10人を超す大所帯であった。
 当時はおかっぱあたま。「散髪は父がしてくれた。」登下校について、当時は「子捕りがいて、捕まえられてサーカスに売られるぞ」と言われた。昔、筆者もこういう大人の会話を聞いたことがある。列島各地でいわれていたようだ。冬の登校時は、大川瀬の出口のところに気のよいおじさんがいて、寒いときは火を焚いたりしてくれていた。そこで火にあたり、そのうち他の人も来て、集まったところで学校へみんなで出発。結果として、現在の集団登校のように。
 50周年記念誌の年表に「昭和一八年五月 運動場に大豆、芋を植えて食糧増産をはかる。」とある。また、旧版の三田市史には「学校裏の開魂園」とある。国策で運動場も畑に、学校の近くの山林原野は開墾して畑にしていた時代で、藍国民学校も同様である。「校舎の裏側に田んぼがあって、ため池もあって、そこの水をもらって稲を作っていた。田植えとかは高等科の人たちがしていたのと違うかな。」「その背後に山があって、そこを畑にするため開墾したわ。」
 左の写真は戦前、右が戦後で、校舎の裏山が明らかに違う。右の写真のうち、「左の校舎と右の講堂の間の奥の色が白くなっているところが畑。芋などを植えた。」

「開墾したときに出た土を運んでいた。」「土を運ぶさらかご(バイスケともいう)と棒(天秤棒)は私たちが家から持って行った。ふたり一組になってジャンケンするんですよ。負けたら家からかごを持っていく。勝ったら棒。二人でその浅い竹を編んださらかごに土を入れて運んでいた。」「体が丈夫そうやったら上級生がたくさん土をかごに入れてやし。」「日出坂のトンネルの近くにも学校の畑があった。そこにも行った。」「藍本の駅前から随分歩いて行ったところで、高等科の人たちが炭を焼いていた。」旧版の三田市史には“藍国民学校高二男の炭焼作業(昭和19年)”というキャプションのついた写真が載っている。「“欲しがりません勝つまでは”で、何かをせなあかんと。」

 上の写真は車寄前で撮られた昭和22年3月卒業生の卒業記念写真である。先生や子どもたちの足元に畑の畝状のたかまりがみえる。「児童は車寄の正面玄関には行かせてもらえない。国民学校の通用門は別のところ。だからどのように使われていたか記憶にない。畑の痕跡かもしれないし、戦後の食糧難で何かを生産していたのかもしれない。」「国民学校の奥の方はすごい崖で、桜の木の下に鉄棒がある。そこでわれわれは俵編みをしていた。それもジャンケンして菰編みを家から持って行っていた。俵は供出するための米をいれるためやと思いますよ(あるいは高等科の児童が焼いた炭を入れるためだったか)。」


 

 同校の50周年誌の年表には、昭和20年12月14日、「校舎外部の戦時中の迷彩を黒一色に塗装替え」とある。「戦時中は黒色の迷彩やった。ここらあたりの家もそうやった。壁を迷彩に塗ったのはいつか覚えていない。戦後、迷彩は不細工だと黒一色に塗った。」左上の写真は創設まもないころの写真。右上は戦後の写真。壁面の色の違いと、屋根の模様の違いが顕著である。屋根には迷彩が残っているようにみえる。「屋根は迷彩が残ったんと違うかな。戦時中は屋根のように壁は迷彩だった。」都市部の学校では空襲に備えコールタールを塗っていたので、藍国民学校もコールタールだったかもしれない。50周年誌には毎年の卒業写真が載っているが、1954(昭和29)年3月卒業生の写真から校舎は白色に写っている。
 「昭和二十年頃」とされる写真には窓に×がみえる。

「爆風でガラスが飛び散らないように、白い紙を貼っていた。家でもそのようにした。台風に備えて目張りするようなもの。」
 8月の“玉音放送”のとき、父はカミノマで食事中。その場で聞いても戦争が終わったとはわからなかった。
 戦後になって、「小学校(国民学校)6年生の時、招待リレーといって、あちらこちらに行かせてもろて」「三田高女の運動会のプログラムの1つとして“小学校招待リレー”があった。6年生のとき、有馬郡内の小学校の走りの選手ばかりが走らせてもろて、優勝した。」次の写真は三田高女の運動場で優勝旗を受け取っている親谷さんである。また、「三輪小学校招待400mリレー優勝 六年生の秋」との説明書きの男子4人・女子4人と先生3人が写った写真もお持ちである。

 【補足】 陸上の招待リレーだけでなく、球技大会も盛んであった。三田小学校『百年のあゆみ』(1973年)から紹介する。
   「昭和初期の小学校での学校対抗球技では、三田中学校主催の郡下小学校野球大会と、三田高等女学校主催の郡下小学校バレーボール大会に人気が集中していた。」「どちらも学校の名誉にかけて覇を競い、その意気ごみは大したものであった。」

             「三田高女 小学校招待リレー優勝」(高女の運動場)

 親谷さんは、1947(昭和22)年3月、藍国民学校を卒業され、4月、長坂中学校に入学された。1947(昭和22)年3月、学校教育法が公布され、4月1日から施行された。この時から新制の小学校・中学校がスタートした。○○国民学校は○○小学校となった。親谷さんは、新制中学校の1期生となった。
 「入学したのは藍分校。藍小学校の講堂近くの教室を中学校で使っていた。長坂中学校の校舎がまだできていないので、分校で入学式、今垣校長がこられたのを覚えている。入学式は運動場だったか、講堂だったかは覚えていない。」「小学校の講堂は中学校でもよくつかわせてもらった。」 藍分校の入学時の写真には男13人、女17人が写っている。
「藍分校から長坂中学校に移ったのは2年の夏だった。」長坂中学校は藍村・本庄村・広野村組合立としてスタートした。
 中学校のソフトボール部の写真がある。「藍分校に入ったとき木林先生がいて、分校が統合して長坂中学校がスタートしてから、木林先生がつくられた。この部は卒業まで続けた。」
「郡内では長坂中学校と塩瀬中学校は強かった。広い運動場のある三田学園で有馬郡内の対抗試合があった。」「セカンドショートというポジションがあって、女の子5人、男の子5人、1つのチームは男女混合。ピッチャーが女、キャッチャーが男、だいたいどのチームもこれだった。ショートが男、サードが男、セカンド女、レフト男、ファーストとセカンドの間にセカンドショートという、ライト前のポジション。同級生の森沢巧さんがショートやった。」森沢巧さんは有馬高校の教頭を務められた(故人)。
 「有馬郡中学校陸上競技大会優勝」と説明された写真をお持ちである。女5人、男10人、
先生方と思われる8人の集合写真である。2年生のときで、長坂中学校のチームのようだ。親谷さんは陸上競技部に入っていたわけではなく、足が速いので声がかかって参加されたそうだ。「写真の優勝は長坂中学校チームが総合優勝した時のもの」だそうです。
 声がかかったのはスポーツだけではない。「有馬郡連合音楽会 三田学園にて」と説明された写真をお持ちである。3年生の時、コーラスだけの音楽会だったそうだ。三田学園の講堂で、女子14、5人、男性の先生の指揮でステージに立っている。このときも声がかかったそうだ。
 「“せヽらぎ”創刊号の編集成って」「第一回青塔会総会のあとで」「第二回青塔会総会」と説明された写真をお持ちである。「第一回青塔会総会のあとで」の写真には、中学校の玄関前に高校の制服姿、私服姿で整列した46人もの女子ばかりが写っている。青塔会は木林先生が藍分校のときつくられたそうだ。「詩あり何でもありの文芸活動の集まり。」「木林先生はかっこよく、木林先生のファンクラブの集まりのようなもの。ソフトボール部の卒業生なども集まった。」「“せヽらぎ”は青塔会の機関誌でした。」
 卒業旅行(修学旅行)は船で四国へ行かれたそうだ。
 1950(昭和25)年4月、有馬高校に入学された。親谷さんらは新制中学3年間を過ごして高校に入学した最初の生徒さんである。入学式は北校舎の運動場であったそうだ。当時の運動場は、現在の体育館などが建ち並んだ周辺、現在の運動場は、当時は水田であった。入学宣誓は首席で入学した女子だったそうだ。親谷さんのクラスは1年1組、普通科。担任は御堂岡先生、数学の先生。入学時のクラス写真には先生方5人と女子ばかり52人の生徒が写る。52人の生徒で教室はいっぱいであった。2年は3組、担任は西先生、3年は1組、担任は新井先生。
 親谷さんの時代は未だ卒業アルバムがない。先生方が撮られた写真をアルバムに整理されている。お話もその写真をみながら高校生活をお伺いした。次のような珍しい角度の写真があった。右にみえる屋根は井戸の覆いである。親谷さんが仲良しの子と談笑しているところを南校舎の2階から辻井先生が撮ってくださったものだ。

 1年のとき六甲登山があった。神戸電鉄の六甲登山口駅(いまは神鉄六甲駅と名前が変わっている)から歩いてあがっていく。「思い思いの服装で。」写真をみると楽しそうである。

 「長坂中学校のソフトボール部のピッチャーやった篠山からくる人で、2年上でキャプテンやった人が、入学式が終わって帰りよったら、ソフトボール部へ入れとスカウトされた。」「ポジション争いは激しかった。」「1学期の間、活動したけれど、家が遠方なので帰るころは暗くなりこわい、家の者も心配する。国鉄の本数も少なく1本逃したら大変、クラブはやめた。」
 「北校舎で勉強したことは一度もない。」「1年生の時、農業科の田代先生という教頭先生(当時は校務主任と表していた)が「幾何Ⅰ」を教えに来てくださった。女の子を教えたことがないからと言いながら、楽しい授業でした。」
 「社会の辻井先生は、グループで有馬(温泉のある)などあちこちに連れていってくれた。いまやったらそうはいかないやろうね。」
 2年のときは家庭科の西先生が担任。「この先生にはおおきな影響を受けた。」「立花に家があってそこから通ってこられていた。よう家に行かせてもらった。」
 「運動会ゆうたら仮装行列があった。」記念写真をおもちであった。写真をみると、2年3組のテーマは“移り行く映相”、「銀座カンカン娘」「若草物語」「天国への階段」「あゝ老いらく 青春」「ヘンリー ハングリー五世」「袴だれ よだれかけ保輔」のプラカードがみえる。
 親谷さんは三年次の賞状を残されている。三年は1組である。文面は「人形 右は第二回文化祭に頭書の優秀な作品を出品されたのでこれを賞します 昭和二十七年十二月一日」
「学校長 岩佐修理」である。

 修学旅行は2泊3日、箱根、日光の東照宮・中禅寺湖、東京の二重橋・国会議事堂などを巡られた。「大阪駅夕方5時5分発の夜行に乗るんです。このとき大阪駅のプラットホームから落ちた人もいた。皆で引っ張り上げ、怪我もなく。汽車には乗り慣れない田舎者が多かった。」
「箱根に朝3時30分に着く。2時間ほどホテルにおらしてもらって、大浴場にも入らせてもらった。」「米は持参しなかった。」
 国鉄三田駅を降りて、桶屋町を通って、ころび坂を上がって学校へ。女学校から引き継いだ木造校舎で、「掃除のとき廊下や床は毎日雑巾で拭いていた。黒光りしていた」そうだ。
 在校中一度限りの映画鑑賞の記憶があるそうで、一年生のとき、通学仲間で、三田劇場で「青い山脈」を観られた。池部良、若山セツ子が印象的だったそうだ。「2年ほどの上の人は皆して(学校から)行ったといわれる。3歳ほど下の方はアルバムに一つの学年でまとまって観ている写真が載っている。」
「三年のとき、進学適性検査を神戸の板宿の高校まで受けにいった。」検査の結果が良かったようで「進学相談をしていた辻前先生から京都の学校を勧められたが、家から通われない。家から出ることは叶わなかった。兄が大阪まで通勤していたので、大阪の阿倍野の短大までは行かせてもろた。」「1時間半の通学の汽車の中で宿題をしてしまって。勉強はずっと汽車の中。当時は窓から煙も入り放題。」

【補足】進学適性検査
 1947(昭和22)年度~1954(昭和29)年度に大学入試において実施された。当時の日本を占領していたGHQの民間情報教育局から、アメリカ型の適性検査を入試に導入するよう求められたからだという。各校が実施する学科試験に先立っておこなわれたが、合否に適性検査結果をどのように使うかは各校に任された。

 学校を卒業されてからのことの一端を紹介します。有馬高校のPTAである育友会副会長、清陵会副会長、三田の農協婦人部副部長などを歴任されてきた。1973(昭和48)年より1986(昭和61)年3月まで農協婦人部役員を務められたおわりごろ、1982(昭和57)年から2012(平成24)年まで29年間、民生委員を務められた。
 「いまは区の方からの推薦、当時は市で民生委員選出の委員会があり、そこに三輪地区から一人でていて、その方が推薦してくださって、頼みに来られた。そのころは三田地区で民生委員は20人ほどいたかな。」「子どもたちの生活保護の証明から福祉資金も配っていた。子どもたちの給食費の免除の査定も。住んでいても住民票がない人がいて。そのころから役所がするようにすごい量の仕事。役所から直に仕事が伝えられる。刑務所から出所した人のところへ生活保護費を持って行ったり。当時振込みの仕組みはない。孤独死していた人の場合、その人のお葬式の段取りから、市から出る葬祭費の手続きもして。赤ちゃんができると三か月健診とか、「行かれましたか」とその人に言いに行ったり。」「娘についていってもらって、東京へ行って厚生大臣賞をもらいに。」「民生委員・児童委員会女性部があって、2回ほど全国大会などに行って発表する機会があった。」
 1964(昭和39)年7月、三田ユネスコ協会が設立されたが、途中から会員になられた。
「活動はボランティア。バザーをして活動費を捻出した」そうだ。「世界寺子屋運動いうて、古い未使用の鉛筆、はがき・切手などを集めて海外の子どもたちに贈った。有高はものすごく協力してくれていた。」ところがあるときから協力が得にくいようになったようだ。2014(平成26)年1月28日、三田ホテルで創立50周年記念式典が行われたが、副会長の親谷さんが司会を務められた。郷の音ホール敷地内にある平和の鐘はこの50周年事業のひとつだった。いまは顧問だそうだ。
 地元の高次区副区長も区長の指名で務められた経歴をおもちである。「公民館を利用して、健康体操、籠編み、パッチワーク、ちぎり絵、大正琴などいっぱいクラブをつくった。」と語られている。
 「有高で市花“さつき”の啓蒙に取り組んでほしい」との願いを語られていたことを最後に記して取材のまとめとします。
                           (執筆 上垣正明)
最後に親谷さんから自筆のメッセージをいただきましたので、次に紹介いたします。
令和4年春
無事に米寿の年を過ぎました。2年間の新型コロナウィルス禍の経験から命と健康を守ることの有難さを思い知ることができました。人々とのふれあいは、ものづくり。話し合いの場より生まれ、育ち、日々の営みの活力となって、ただ感謝の念が充ちてくるのを覚えます。
これからは、残された部分で若い者たちの負担を少しでも少なく老後を過ごしたいと願っています。さつきの手入れ、大正琴、ちぎり絵の会、家庭菜園に励みたいと思っています。
                            (親谷 美津子)