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いつまでも若々しい先生にお会いして

前回は中ノ先生、今回は長谷川先生と、私にとっては懐かしい先生ばかり、今回は特に奥様が高校時代の同級生という事で弾む気持ちを抑え取材に訪問しました。

家に着くなり、お二人の歓迎を受け、先生の若き頃からの話に聞き入ってしまいました。
先生のご実家は淡路(南淡)で、父は住職。9人兄弟の8番目として生まれました。 旧制中学を出て、大学では文学部哲学科倫理学を専攻され、卒業後は新聞記者を志望され、毎日新聞社を受験されたそうです。 しかし、本校の岩佐修理校長から是非にと誘いを受け、昭和26年5月1日から教壇に立たれるようになりました。 最初は臨時採用でしたが、その年の11月からは本採用となり、教科指導や部活動に時間を忘れ打ち込まれました。

「当初は、教師を続ける事に戸惑いがありました。しかし、先輩教師がすばらしい方々ばかりだったので、生涯の職業にしようと決心しました」
と、懐かしい先生方の名前が次々と出てきました。

当時を振り返って話される中で、 岩佐校長から卒業式の祝辞の原稿を依頼され書いたこと、 現在の卒業アルバムの元を作られたこと、 そして、 校訓「まこと」を校訓制定委員会の中心となって創られたことを伺い、驚いてしまいました。

又、部活動の話になり、最初の4年間は文学部の顧問として、生徒と共に文集『芥』作りに打ち込み、 その後は、軟式テニス部の顧問をされ、丹有地区では敵なし、県でも常時上位を占める部に育てられました。 当時一番大きな西日本大会にテニス部の二人と出場したことなど感慨深く語られました。

昭和44年まで18年間本校で勤務された後、他校へ転勤され、県立伊丹高校校長を最後に退職されました。 退職後は、湊川短大の講師として、一番の専門である倫理を教えられ、今は好きな囲碁に打ち込まれ、 奥様の世話をされている『歩こう会』で毎日仲良く歩いておられるとか。

最後にいわれたことは、「私は有馬高校で育てられました」と昔を懐かしみながら話されました。

(文責:谷郷賢明)