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山内宏 さん (農林43回)

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肖像写真

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在学時代を思い出し

千五百秋 瑞穂の國は
農をこそ基としつれ
山の幸 野の幸 饒き
彌榮のすめらみ國を
たヽへなん 御民吾等は

意氣燃ゆる 若き吾等は
まごころとのぞみに充てり
いざ高き 理想かヽげつ
いそしまん學びの道に
果さなん 重き務めを

  ──三田農林学校校歌より

 大東亜戦争が始まった翌年、昭和十七年四月、三田農林学校に多紀郡(現・篠山市)からは十五名が入学した。既に六十有余年、その当時の事は、だんだんと薄れてしまう。

 二学級で、勤勉・忠実・振興・向上・共栄・報徳の六班に編成され、午前中は学科、午後は教練と農場で実習、放課後は部活動で、体育や剣道等があった。私は小学校で剣道していたので迷うことなく剣道部に入部した。

 学科の内、英語は基礎授業を受けたものの、途中で敵国語を勉強する事なんかないとかで科目から消えたのではなかったのか……。卒業し就職してから困ったが。

 戦況がだんだんと悪化し、昭和十九年四月には学徒動員令が発令され、学習が減り勤労奉仕に出る事が多くなった。校舎には軍需工場の工作機械が疎開設置され、もう勉強するどころの騒ぎではなくなった。そんな時、私は農商省より「農業技術員委託生」を命じられた。確か故・吉田汀二君と二名だったと思う。経過等は何も聞いていない。今私の手元に一枚の紙片が残っているだけだ。

 そのような状況下、下級生の皆さんと一緒に名塩へ、又、三輪のゴルフ場へ航空燃料ガソリンの保管場所の被覆をしに連日行く。更に現・丹波市市島町鴨庄へ厳冬養魚場造成に、喜多公民館で宿泊し乍ら奉仕作業した日々。「ほしがりません勝つまでは」そんな言葉が昨日の事のように思い出される昨今である。

 昭和二十年三月に卒業し、県農業会に就職したもののすぐ召集が来て、大阪泉北信太山砲兵部隊に入隊砲手として教育を受けたが一発も打つこと無く、十月に復員した。

 翌二十一年県農業会に再就職し、爾来農林省兵庫作物統計事務所を経て兵庫県農業共済組合連合会に奉職し、昭和六十一年三月に定年退職。現在農業に専念していている。

 若し戦争が起っていなかったら、どのような人生を送っていただろうと思う、今日此頃である。

(山内 宏)

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