[ 表紙 / 恩師へのインタビュー / 上馬良夫 先生 ]

上馬良夫 先生

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肖像写真

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  『私達の結婚式は燈火管制下、ほんとうにささやかなものでした』
  奥さん(三田高女12回卒・大西スガさん)の大戦末期の状況を噛みしめるような一言ひとことで、 当時の混乱状態を思いおこしました。

  先生は三重高農(現三重大学)を卒業後本校に奉職され、 直後の昭和19年6月末日頃、兄君がサイパン島で島民と共に玉砕されました(その数41,244人)。
  その年の7月、情け容赦のなく若者が戦争に駆り立てられる世相の中、慌ただしく結婚されました。
  幸せを約束されての結婚ではなく、双方それなりの覚悟の挙式であったと思われます。 薄暗い電灯の下と言う舞台設定が余計に状況をしのばせます。

  戦時色一色の学校では、 男子生徒は教練と食料増産の開墾と薪炭づくり、 女性徒は川西航空機等で女子挺身隊員として兵器製造の一翼を担った事、 更にはまだあどけなさの残る若者に予科練への志願を要請しなければならない辛さなど、 当時教職に在った苦悩を語ってくださいました。

  当時三田農林にも2機のグライダーが購入され、 担当教諭として検定試験合格を目指して長坂で練習に明け暮れた想い出もお持ちの様子でした。 練習で故障しても資材の乏しい当時修理に御苦労も多かった様ですが、合格者も大勢でたと聞きホッとした一瞬でした。
  そんな銃後の教壇の暮らしも束の間、新婚生活に容赦の無い現役兵として入隊・従軍、おくりだす親・新妻の心境たるや如何に。 「七たびの飢饉に出会うとも、一度の戦争に出会うな」 三人の息子を戦場で失った老父のつぶやきが聞こえてきます。

  幸い終戦によって無事帰国後は、新学制の下、定時制・分校の草創期の御苦労が待っていました。 羽束や小野は勿論のこと、吉川高校の前身の吉川分校・遠く山口分校(現西宮市)等、"若者を勉学の場へ"の高い理想の下、 最盛期には7校10教室も展開した定時制でしたが、 時代の変遷と共に統廃合されて行く様子をまるで我が子を慈しむ様に語られる言葉を聞いていると、 先生が如何に真剣に教育に取り組んでこられたか、「定時制で頑張った子達の事を書き残して置きたい」この言葉が全てです。 (先生いつでもお手伝いをいといません)

  退職後は三田の選挙管理委員長を始めとして、お心優しい兄思いのお人柄から長年に亘り三田市遺族会のお世話を下さったり、 地域や市内の高齢者の中心的な役割を担ったりして気配りの日々をお過ごしです。
  中でも菊づくりとゲートボールの審判員や指導者としての熱心なお世話は衆目の認めるところです。

  先生の通られた後は何処も明朗運営と記録と、後々どんなに助かるか、先生の生真面目さがそうさせずには置かないのでしょう。 いつまでも現役で御活躍を期待しています。
  その先生も来年はダイヤモンド婚式、優しい奥さんとの二人三脚がいつまでも続くことをお祈りして長居を辞した次第です。

(文責:大西勲)

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写真 写真

 サイパンの大砲。
 兄君をしのび、上馬先生がずっと持っておられる写真です。

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