輝かしい寺歴のある吉川町の高野山真言宗法光寺(注)住職の玉田先生を訪問しました。
先生は大学卒業後、当時有馬高校は数校の分校があり、本校・分校と言う呼び方をしていましたが、吉川分校に着任されました。 その後、定時制、そして本校と昭和54年まで勤務されました。
吉川分校時代はバレーボールの指導に若き情熱を注がれ、地区・県大会に好成績を残し、近畿大会にも出場する活躍をされました。
当時のレギュラーで、今は、町役場に勤務されている谷郷美鈴さんに当時の先生の思い出を語って戴きました。 「あまり細かく言われず、先生自ら行動しお手本を示され、とにかく黙って怖い先生でした。今も、当時のメンバーが集まって先生とお会いしています」 との事でした。
又、一方ではバレーボール協会の役員として、そして日本バレーボール協会A級審判員として貢献されました。
本校では、社会科を担当され、生徒の学習意欲を喚起しつつ学力の向上に努められました。 又、生徒指導に熱意と信念を持って当たられ、特に40年代半ばの生徒の問題行動が多発した時代に、 生徒指導部長として生徒指導体制の確立を強く推進し、成果を上げられました。 その後も教務部長・保健部長と歴任され本校発展に大きく貢献して戴きました。
そして、54年4月教頭として県立尼崎工業高校へ、57年4月から県立村岡高校の校長、そして、県立吉川高校の校長を最後に退職されました。
退職後は、吉川町の発展に貢献され、その中でも、特に社会福祉協議会理事に就任、 法人設立準備委員会委員代表になり知事より認可をうけ、後は会長となり会の充実・発展に大きく貢献されました。 その他にも町長・教育委員会・知事から委嘱され数々の役職を努められました。
平成10年に奥様を亡くされてからは、吉川町の役職からはほとんど身を引かれましたが、 昭和61年に法務大臣に委嘱された保護司としては、現在でも三美地区の犯罪者の更正・保護の任に当たり、犯罪の予防に努められています。
又、これまでに貢献されてきた数々の役職に対しての表彰も受賞され、紙面の関係で紹介できないのが残念です。
今回は、先生のお話を伺うだけでなく、歴史と由緒ある法光寺を見聞し、心が清められる思いでした。
広大な敷地・建物にはゴミ一つなく、草一本生えておらず、「先生誰が掃除されるんですか」とお聞きすると 「私が朝早くからやっているのですよ」と言われ、ただただ驚くばかり。 最近病気で40日ほど入院されたとお聞きしましたが、お元気なお姿で安心しました。
近々大僧正を拝命されるとお聞きし、益々お元気で活躍されることを願いつつ法光寺を後にしました。
(文責:谷郷賢明)
湯川山 法光寺
仁治三年(1242)等の縁起には、白雉二年(651)法道仙人開創と伝えられる。
本尊は阿弥陀如来座像
寺歴は古く、吉川上庄の別当職をつとめ、修験、念仏、南朝との関係、領家万里小路家とのつながりなどを示す資料がある。
県指定重要文化財(寺蔵)
1.古文書3巻
2.鬼面 八面のうち一面
3.五輪泥塔 全長6.4cm
4.石造五輪塔 2m
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