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「なんと温厚な先生だろう」これが団野先生へ皆の抱く第一印象だろう。

ところが経歴を聞いてびっくり仰天、世に言う特攻隊の出身とのことで驚きである。

代々の宮司の次男として篠山に生を受け、陸軍特別操縦見習士官第一期生になられたが、鎮東で教官をしていたために(注1)、出陣はされなかった。
九死に一生得て帰還されながら、みじんもそれを感じさせないお人柄の陰で、今もなお戦場で散った戦友を偲び慰霊の活動を続けておいでと伺い、思わず頷いてしまったのは私だけだろうか。

北朝鮮水原で終戦を迎えられ、復員後、平安神宮、北野天満宮の神職を経て、 昭和27年、本校に迎えられ、以来昭和57年まで30年間教壇に立たれた。

その後、神戸学院女子高校で4年間教鞭を執られた後、再び三田に戻ってこられた。

以来、三田市教育委員会の嘱託員として昭和61年より現在に至るまで、 主に「源氏物語」を中心とした、古典講座を開き多くの市民に好評を博しておいでと承る(注2)。
どんな”光る源氏”か、あの思わず引き込まれそうな口調の講座は拝聴してみたいものである。

注1:
政治家・梶山静六氏(自治・法務・通産大臣及び自民党幹事長等を歴任)が、当時の教え子の一人だそうである。 注2:
「古典講座」は、第1・第3火曜日に、九鬼邸に隣接する公民館分室(旧保健所、TEL:079-563-5611)で開講されている。
(文責:大西勲)

 

団野先生からのメッセージ

教職を辞してから、すでに二十数年がたちました。

教壇を降りて、はじめて気づくことが多いので、それを恥ずかしく思ったり、悔いたりしています。

その一つは、私が紋切型の教師でしかなかったことです。 生徒さんを、十把一絡げの人間として、紋切型の感じ方や生き方を求めていたようです。 若者には、もっとまぶしく、新鮮な生き方があったはずですのに。

もう一つは、私が私自身のいのちを軽んじていたことです。 むしろ死を美化していたようです。 自分のいのちを軽く考える者が、どうして他人のいのちを大切に思うでしょうか。 平和につながる重要なことですから、命がけで操縦桿を操るのと同様、平和の問題を真剣に教えるべきでした。

八十の歳になって、はじめて気付くことがあまりにも多くて、それを恥じたり、悔いたりしています。
団野 博

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