三田市の農業発展に貢献、欣勝寺本堂建設の委員長としても卓越した手腕を発揮
          
私が兵庫県立三田農林学校に入学したのは、太平洋戦争終戦間近い、昭和20年4月であったように思います。
入学式は、寄宿舎横の桜が満開の農具舎前の空き地でした。校長先生の訓話の後、在校生代表の方が、歓迎の言葉を原稿もなく長い時間、教師や在校生の前で堂々のことばを述べられ、さすが三田農林の生徒だと感心したものでした。その時の代表の方が、私が有馬高校のPTA役員をしていた時、校長として来られた中北 勝氏でありました。
久しぶりにお会いした時に、私を覚えていてくださって「山本君、ご苦労さん よろしく。」と声をかけてもらったのが、今も懐かしく思います。亡くなられるまでいろいろと連絡や賀状のやりとりがありました。
当時は、教科書のようなものは無くて、新聞紙に印刷したものを自分で切り取り綴ったものが、教科書でした。毎日が実習で運動場も開墾され、サツマイモや南瓜が植えられていました。何しに農林学校に入学したのかなあと思い、学習するものは何もなかったです。
学校近くの 傍示山の開墾、武庫川の堤防の牛の餌にする為の草刈り、場所は貴志の御霊神社近くであったように思います。薪の運搬作業、上級生に交じって体力の無い自分は大変な苦労でした。
実習すべて上級生と一緒の班編成(勤勉、忠実、向上、振興、共栄、報徳)6班に分かれ
絶えず上級生と一緒でした。食糧事情はますます深刻となり、戦後、長坂にあったグライダーの練習場に開墾に行ったように思います。戦時中満州に行かれた人たちが帰国して、ここで農業する為だと聞いた覚えがあります。
その後、少し勉強が出来るようになったのは、二年生の春だったように思います。教科書らしきものも少しずつ整い、先生が黒板に書かれるのを必死になってノートに書き写したのを覚えています。年号年代は定かでないですが、昭和22年から23年頃のように思います。学校が、6・3・3制になり、三田農林と三田高等女学校が統合され、県立有馬高校が発足しました。
自宅は三輪町南部の桑原にある為、自転車通学は認められず、歩いて三田農林、有馬高校へ4年間通学し、三田農林と有高で計2回卒業式をしました。当時の道は地道で、美嚢郡吉川、加東、大沢、八多、小柿、高平方面の方は、自転車通学だったように思います。多可郡、大阪豊能郡能勢の方々も自転車通学していたように思います。寄宿舎に入った生徒も大勢いて一番遠いのは、朝鮮から来ている先輩もおられ、皆さんよく頑張ったものでした。

修学旅行は、先輩たちは戦中戦後の社会情勢が不安の中、行けてないと思いますが、私たち有高1回生は原田春男先生、上馬良夫先生に御尽力いただき、君たちに思い出を作ったろうと、本当は県教委の許可が必要だったのですが届けることなく、首をかけて連れて行ってやると動いていただきました。今のように旅行業者などなく、先生方が考えて費用も安く、神戸港から関西汽船の夜行便で(船で一泊)朝、四国の多度津だったように思います。金比羅宮、小豆島を見学しました。山しか見たことない我々には、瀬戸内海の美しい海に感動したのを覚えています。
帰りはまた夜行の船で神戸港に着き、旅館には一泊した覚えが無いです。行く所の入場料等は上馬先生が現金を持っておられたように思い、私たちのために今にして思えば大変な御苦労をかけたんだなあと感謝でいっぱいです。
私は、農家の長男で生まれた為、有高卒業後は農業をすると決めていたので、案外
有高の一年間はのんきに過ごしていました。ある時上馬先生から、「親も若いし、小学校の先生にならないか。」と言われ親に言ったところ、「卒業するのを首を長くして待ってたんや、勤めることは まかりならん。」と言われ、母親すじのおばさんからも反対され、勤めることをあきらめ、菊を作ったりいろいろな切花や野菜を作ったりしましたが、労働の割に収入が少なく、何か良い案はないかなと考えていた時、宝塚山本の植木の産地から、暇なとき働いてみないかと言われ、知り合いの植木屋さんで勉強がてら働かせてもらいました。山本の皆さまの応援もあって国家試験造園技能士一級の免許を取り、各方面で珍しがられました。体力のある限り造園も続けて行こうと思い、意を決して36年ほど続けましたが、体力の限界を感じ今はやめております。
令和3年で92才の年を迎え、友にも恵まれ大勢の人に接し、昭和50年には三輪小学校PTA会長を務め、私の娘、息子が有高に入学した為、育友会役員、会長として6年有馬高校にお世話になりました。

平成9年損害評価会委員として、県共済組合、三田市長より感謝状を頂きました。また、
平成16年三田農業まつりでは、農業の灌漑や農道整備の貢献により、市長より感謝状を賜りました。

友に恵まれ昭和53年頃に有志が集まって、来るべき三輪小学校の100周年に向けて今だったら当時の方々も元気におられるし、という事で、第一回生にも集まっていただき、いろいろな思い出を語ってもらい、たくさんの資料を集めて100周年に向けて準備をしておこうと行動を起こしました。集めた資料を三輪小学校に保管を依頼し、平成14年に後輩たちが立派に100周年事業を行ってくれました。

         〇人は知り合いによって知り合いになり
         〇つき合いによって友達になり
         〇たすけ合いによって仲間になる
    誰の言葉か知りませんが、この三つを絶えず心に
92才まで皆様のおかげで元気に生きてきました。
感謝でいっぱいです。

我が母校、有馬高校の益々の御活躍を祈ります。

(執筆 谷口真弥)