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「私の思い出」
昭和19年5月、学徒動員令により、三田高等女学校(有馬高校の前身)の1・2年生は山や校庭を開墾して、サツマイモ・南瓜等増産に励むようになりました。 また、3・4年生は川西航空機の作業場へ行き、私たち職員は一週間交代で付き添い、見回りました。
昭和20年に終戦を迎え、物資不足の時代から早60年、私も高齢となり過ぎし日を偲んでおります。

昭和25年から45年までの分校時代にも、たくさんの思い出があります。
長坂分校で、懐かしく思い出されるのは、分校交流として行われた球技・弁論・ホームプロジェクト大会等で、生徒と共に頑張ったことです。 定時制では、ほとんどが上野準看護学校生徒で高卒資格を取るため、昼間の疲れた体にもかかわらず一生懸命学習に打ち込んでくれたこと。 吉川分校では、修学旅行の代わりに行われた北海道への体験実習や旅行等。 本当に色々と体験させていただきました。

そして最後の勤務となった本校では、教室も多く、設備も整い、分校に長年勤務した者としては慣れるのに一苦労致しました。

又、夏休みを利用して、東南アジア・南ヨーロッパ旅行が出来たことも良き思い出です。 その一方で、昭和48年秋には、胆石のため入院そして手術、そのために学校を欠勤と、病に苦しんだこともありました。

沢山の思い出の中で、昭和52年に退職しました。
退職後は元教師四人で、俳句・俳画・旅行と楽しみました。 特に旅行では、学校厚生会の紹介する各名所へ行き、写真を撮るのが楽しみでした。
また、昭和60年後半から平成10年まで、種苗の家業を続けながら両親と暮らし、介護できたことも、私にとって幸福でした。
両親亡き後は、独り身の自由となり、しばらく中断していた友人との交際を楽しんだり、読書・俳句・謡曲・福祉の集い・高齢大学と充実した毎日を送っています。

最後に生徒のみなさんへ

現代のグローバルな社会に於いて将来の夢を少しでも早く描くこと、同時に、実力の時代でもあるので、何かの資格を取ることも重要になってきていると思います。 苦しいときでも我慢しながら、後悔のない若き日を過ごしましょう。

的場 操子
(80歳を過ぎられたのに、お年を感じさせない溌剌とした先生にお目にかかれて、そしてお話が出来、楽しい一時を過ごしました。 本当にありがとうございます)