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藤田 年次さん(有高2回)

私は、氷上郡春日部村多利(現丹波市)に鎮座します阿陀岡神社の宮司の次男として育ち、当時我が家は、2町5反余の農地を有する地主であったことから私がその経営を担うことになり、郡内から多くの先輩が学ばれている歴史と伝統ある三田農林に入学しました。終戦直後の昭和21年4月です。

福知山線市島駅5時16分発の列車は、出雲大社発の大阪行きの夜行列車で、闇米列車とも云われていてデッキは米袋の山、通路は多くの人が寝込んでいて、今では想像もつかない状況の中1時間30分余を要して通学しました。苦労して通学しましたので学校では良く学び農業実習にも良く励んだと思っておりますが、戦後の混乱期通学時間を持て余し車中での操行がよくなかったことも思い出します。

また、最近母校を訪問して、昔の面影を残しているものに校門の門柱があります。これは、私たちが農林2年生(新制1年生)の時に、三輪の三田青磁の窯跡から、窯壁等の破片を収集して持ち帰り構築した懐かしい校門です。平成17(2005)年4月の同窓会はこの門柱を囲んで記念写真を撮りました。

昭和21年相次いで発表された農地改革により、在学中に我が家の農地は「不在地主」(父の名義でなく職業軍人の弟名義のため)と云うことで買収され6反しか残らないことになり、専業農家の夢は絶たれましたが、取り敢えず新制高校に進みました。25年に卒業し、当時発足間もない「兵庫県信用農業協同組合連合会(通称県信連)」に就職、農業金融の分野から、県下農業協同組合の発展、自作農維持創設、農業構造改善事業等県下農業の振興に微力を傾注してきました。

平成元年4月、定年退職と同時に神職資格を取得、大阪市西成区玉出西に鎮座します生根神社に奉職、新大阪北平安閣の結婚式場を担当し、平成11年3月までの間に2,225組の神前結婚式を奉務致しました。その後、神社勤務に異動となり、現在も生根神社へ出仕し神明奉仕に務めております。

神職になりましたとき先生から、神主が病気を患うようでは失格ですと言われました。神のみこともちとして、氏子や崇敬者の病気平癒のご祈祷を奉仕する身でもあるからです。以後常に健康管理に留意し、肉体的にも精神的にも健全であることに努め、お蔭をもちまして今年健康体で喜寿を迎えております。

 ──写真右:妻・藤田美津代(旧姓新谷・有高4回卒)

(文責:藤田年次)