7月初、県下では連日コロナ感染者が発表されていたころですが、丹波篠山にあるお勤めの農場を訪問して、事務所前の換気の心配のないテーブルで卒業アルバムのページを繰りながら高校時代を中心に話を伺った。

 まず通学方法からお訊きしました。「自宅からバスで国鉄(当時)相野駅まで行っていた。間に合わないときは自転車で相野駅まで」。「農業当番にあたっているときは家から学校まで直接自転車で行っていた」。「バスや汽車の時刻に合わせていたら、間に合わない」。朝の農業当番のときは6時すぎには家を出て、7時30分から当番がはじまった。放課後の農業当番は1時間ほど、4時30分~5時ころに終わる。「家帰るときは登りが多い。帰ったら夜7時ごろ。いい運動になった」。「バイクをうるさく言いかけたとき、私のころには免許を取ること自体を禁止ということになった」。
 奥野さんの学年で、昭和23年9月から続いてきた農業科は最後になる。奥野さんの一・二年のときは農業科と園芸科(昭和32年4月から続く)、三年生の時は1組・農業科、2組・園芸科、3組・造園科となる。造園科は長坂分校にあった。分校が昭和52年4月1日をもって本校に統合したからである。農業科は女子0、園芸科に女子2名、造園科は女子0であった。農業当番は米・野菜・牛・豚・鶏の世話などがあった。三田天満神社の昔の鳥居(現在とは場所が異なる)の近くに鶏舎があった。「朝、鶏の世話に入って、卵集めて、脚もとの掃除をしてエサやったり」。「気を抜いていると卵をねらってカラスがすぐに入ってくる」。「洗卵機で洗って、選別して、学校が出荷した」。「牛はホルスタイン(乳牛の一品種)で、黒毛和種などはおいていない」。「当時、家には乳牛がいたので、学校の牛の世話もスムーズに。こわごわしている人もいたが」。家畜の臭いは奥野さんのころにも問題になっていた。「新しく移って来られた方には慣れない。家畜の臭いは」。

【補足】学校の牛・豚・鶏

 乳牛が学校に飼われていたころ、搾乳は朝夕1日2回、実習員さんと農業科生徒が行っていた。毎日搾られた牛乳は森永乳業㈱有馬工場に職員によって運ばれた。工場は現在平成大橋近くのえのき児童公園にあった。有馬工場の名前が正確か自信はない。昭和30年代の住宅地図に有馬工場とあるので従った。

 鶏は、鶏舎が3棟、育雛舎、ボイラー室が、三田天満神社への旧参道・旧鳥居近くにあった。育雛の間は生徒の宿泊もあった。毎日300個ほどはとれたという。学校が箱に入れて出荷していた。未熟卵は近所の人が買いに来られたりしていた。生徒の中には校内でボイラーの熱を利用してゆで卵にしていた者もいたそうだ。卵を産まなくなった鶏は、国鉄三田駅北側の三田食鳥㈱に渡していた。  鶏は昭和50年ごろ、乳牛は昭和52年ごろ、豚は昭和57年ごろに学校での飼育を止めた。


 部活動は「家が遠距離で、農当もあり、十分に行える時間はない」。「入学して、文学部に引きずり込まれて、名前書けと」。卒業アルバムには女子7名、男子1名の8名が写っている。この1名が奥野さんである。名前だけのことでしたとのこと。「入学して三年生の先輩らに出会ってから放送委員会に引っ張り込まれた」。「放送機器の設置や撤去など力仕事があった」。放送委員長も務められたそうだ。
 修学旅行は奥野さんのときからスキーになった。前年までは九州方面、戦後しばらくは東京方面だった。場所は信州戸隠スキー場、「三田から長野まで特別列車、どこにとまるわけでもない。長野に朝着いてバスで宿舎まで」。「スキーの経験はなかった。同級生でも体験者は少なかった。終わりのころには結構滑れるようになっていた」。「スキーがいいと、スキーにハマル人はハマル。毎冬、雪の降るころに、仕事で時間がとれたら行っていた。30歳くらいまでは。道具にも大分金をかけました」。
 奥野さんの二年生のときは創立80周年の年だった。奥野さんの名前は80周年記念祝歌の作詞者として学校に記録が残っている。「何人か生徒同士が集まっていたとき、通りすがりに音楽の先生が歌詞を誰か書いてくれないかと言われて。そのことばがたまたま耳に入り、おもしろそうやなあと書いてみて」。「ボッーとしながら思いついたことを、そのまま書いた。2,3日で書き上げた。友人との相談もなし。作詞の経験はこれがはじめて」。ほかに応募作はなかったようだ。奥野さんの作詞がそのまま採用され、手はほとんど加わっていなかったようだ。作曲は加藤茂先生、数学科の教員でブラス部顧問。
 3番までのうち、1番をつぎに紹介します。
 一 三田の小高き丘の上
   我らが母校聳え立ち
   老若男女集へしは
   世代のふちをのりこえて
   ここに祝える八十年
 1976(昭和51)年11月6日、体育館で創立80周年記念式典が挙行され、式典のなかで記念祝歌が“披露”された。ステージ上で生徒が歌い、作曲者の加藤先生の指揮でブラス部が演奏した。奥野さんは放送委員会として裏方の仕事をされていたようだ。
 この年は、“創立80周年記念体育祭”“創立80周年記念有高祭”として行われた。体育祭は“明日を築く歴史と伝統 テーマ 汗”、有高祭は“明日を築く歴史と伝統 テーマ 和”である。体育祭は9月30日、「オープニングのときに景気づけにバクチクを鳴らしたと思う」。この年から応援合戦が採り入れられた。一、二,三年それぞれを分割して一つの縦割りのチームをつくっている。最後はファイアストームだったようだ。広辞苑に「焚火の周りで、歌ったり踊ったりして騒ぐこと」とあるように、この年は、三年生は浴衣で、一、二年生はジャージで、火を囲んでフォークダンス。「真ん中に火床をつくって、たしか上の校舎の方からワイヤで火を落としてきたと思う」。昭和42年に第17回兵庫県学校農業クラブ連盟大会を有馬高校でしたときも、ペントハウスからグラウンドにワイヤを張り、火を落としてきてキャンプファイアをしたようである。当時の校舎は現在のそれとは異なり、4階建ての屋上に3階の突出した搭屋があった。
 当時実家が農業をしながら建築鈑金の仕事をされていた。「樋をかけたり、屋根をはったりと」。高校出たら跡を継ぐということで、卒業後は尼崎の職業訓練校に進まれた。「機械科・鈑金科や自動車整備など技術の短期習得の科ばかり。中学卒業の人、一般から入ってくる人も、年齢層はバラバラ」。「通学も可だが、遠い者は学校敷地内の寮に。私も寮に入った。1部屋4人の相部屋」。奥野さんは1年で卒業し、「篠山の後川の鈑金業者のもとに修行を兼ねて丁稚奉公」。しかし、時代の変化で仕事が少なくなった、そのころ大内農場が春と秋に忙しいので手伝ってくれと声がかかり、今日に至る。春の田植え、秋の稲刈りの手伝いをはじめてから、会社を立ちあげるから一緒にやってくれないかといわれたそうだ。農場では、稲は4,5種類の品種を栽培し、田んぼだけで50町歩はこえているという。何町歩もの土地に黒豆を栽培し、収穫の時期には、去年、一昨年2万人平均の客が来ている。名古屋や富山からも。富山の客は朝4時半に出て、枝豆の収穫をして、夜9時に帰り着くそうだ。
 奥野さん、コロナ禍のなか、しかも仕事の途中に時間を割いていただきありがとうございました。