三菱電機三田製作所で長年勤務され、地元少年野球の指導者としてチームも発展

ご入学は夜間部で、学生生活の思い出としては、担任もしていただいた鈴木先生にいろいろと相談に乗っていただき、大変お世話になったそうです。在学中は生徒会の書記として、学生生活の手引き書「生徒の心得」の改訂版にも関わり、活発な生徒会活動を経験されました。

お仕事は、15才から三菱電機伊丹製作所に勤務されましたので、技能訓練生で社内教育を受け、すぐに三田製作所に移ってからは、実に合計47年間も長きに渡り三菱電機一筋で勤務されました。三田製作所は1986年にカーオーディオ、アクチュエーター(電気・空気圧・油圧などのエネルギーを機械的な動きに変換し、機器を正確に動かす駆動装置)など、自動車機器の開発生産拠点としてスタートしました。

実は野田さんとはご縁があって、三菱電機三田製作所で2年ほどでしたがご一緒したことがあり、その期間(元号が平成になった頃)は、世間は景気も良く非常に活気のある時代でした。営業成績も順調で採用される正社員や嘱託社員も多く、製品の需要も多いのでカーステレオを大量に生産しておりました。製造ラインもフル回転で残業も多く、野田さんは班長として、当時は朝早くから夜遅くまで、大変お忙しい毎日を過ごされておりました。野田さんとお会いすると、今でもその時代の懐かしい思い出話になります。

お仕事以外では、お子さんが地元の少年野球チーム「志手原球友クラブ」に入ると、依頼されて、チームの監督としてチームの指導に当たられました。最初は7人のチームで、試合も他から人を借りてきてやっと試合ができる状態で苦労されましたが、徐々に選手も増えて18人にもなったそうです。最初の頃は連戦連敗していたチームが、リーグの真ん中あたりまで順位が上がり、強くなったそうです。野球を楽しくやろうというのがモットーで、チームがまとまり強くなったのは、大変やりがいがあり、嬉しかったそうです。

また、民生補助委員や見守り隊としても、地元の高齢者や子どもらが住みやすく安全に暮らせるよう地域に貢献されております。今の暮らしぶりをお聞きすると、「中学2年生と小学5年生の孫の世話と、実家の田んぼの農作業で忙しくしています。」
と笑顔でお答えいただきました。
「この年齢になっても、まだまだ必要とされているのが嬉しいです。」と現在は
朝早くから千刈カンツリー倶楽部にお勤めということで、息子さん夫婦とお孫さんに囲まれ、充実した毎日を過ごされているのがよくわかる取材となりました。
                                  ( 執筆 谷口 真弥 )