中芝 秀治さん(農林43回)
満州国への勤労奉仕
昭和18年を迎え戦局の激化に伴い戦時体制は益々強化され、学校生活も予科練への志願者もあり、本来の学校での授業から学徒動員や勤労奉仕へと大きく変化していた。当時日本政府は満州国(中国北東部)での満蒙開拓義勇軍の入植予定地を設定し、入植までの維持管理を全国の農業学校生徒が勤労奉仕により実施していた。
兵庫県ではこの年初めて三田農林学校と上郡農学校が派遣対象校となり、このため当時の2年生(第43回生)の中から15名が選抜され篠原教諭の引率のもとに参加することになった。そして4月上旬東海、近畿地区内の15校の教員、生徒約300名が橿原神宮に集結、興亜学生勤労報国隊満州建設勤労奉仕隊農業学校隊第二中隊(隊長 原田悦太郎)を編成し、3日間の長旅を経て満州国肇東県宗村農場に到着した。
農場はハルビンの西約120km付近にあり周囲は地平線の見える大草原の中にあり土は灰のように微細で強風が吹けば黄砂となり雨が降るとすぐにぬかるみになる土地であった。そして表土の下は凍土で深井戸で汲み上げた水は非常に冷たかったがアメーバー赤痢菌がいると聞かされ生水は絶対に飲まなかった。また風呂は当番が朝から沸かし続けて漸く夕方に入浴できた。なお大陸性気候のため昼夜の気温の差が大きかったが、湿度が低く梅雨がなく比較的過ごし易かったが、全員がホームシックにかかりこれの克服に大変苦労した。
作業は大豆、馬鈴薯、燕麦、野菜等の播種、植付けや肥培管理と併せて5万本の植樹を行った。なお当時すでにトラクター、コンバイン等の大型農機具が使用されており各校より1名の機械班が参加していた。また牛、馬等の家畜の飼育管理にも汗を流した。
そして帰途、新京、奉天、大連、旅順(203高地)等の都市を視察のうえ、7月下旬100余日ぶりに全員元気で任務を達成して帰校した。
(文責:中芝秀治)
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