音楽とともに生きる
まだ取材をさせていただいていないと驚いて、早速に清陵会館で大沢辰美副会長と共に取材をさせていただくことになりました。
梶谷正治先生は私の音大受験の時や有馬高校での音楽の教育実習等でお世話になり、私を音楽の道に導いてくださいました恩師です。梶谷先生のご指導があってこそ今の自分があります。又養護教諭の勝井きみ子先生には主人の演奏会の度に並々ならぬお力添えを頂き、大変お世話になりました。有馬高校の先生方にご熱心にお声かけ頂き、学校をあげて応援くださいまして、深い御恩がございます。
担任1年生で山内先生2・3年生は米田先生でした。誰もが知るところの真面目な先生です。高校時代の一番の思い出は、当時大人気を博した宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」を3年8組・9組合同で文化祭で演じることになり、(革命の火が燃え上がるフランスを舞台に二組の恋人たちの許されざる恋の物語)この作品でマリー・アントワネットを演じました。配役は欠席したときに決まっていたのですが。そして、みんなで力を出し尽くし、一体になって演じました。秋の文化祭だったので練習に没頭しつつ、進学を前にして勉強もおろそかにできず、米田先生はどう思われたのか、さぞかしご心配をかけたのではないかと、当時を思い返しています。
体育祭は卒業アルバムに写っていて、盆踊りの花笠踊りで花笠を被り踊っていますが緊張している様な顔がみんな可愛くてキラキラしています。
楽しかった思い出です
修学旅行は長崎です
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
……
と楽しかった。島原の子守歌が懐かしく残っています。
大学は音大を目指していて、とにかく音楽が好きでした。
有馬高校卒業後は当時、大阪市営地下鉄御堂筋線の本町にあった相愛女子大学音楽学部に入学。当時はまだ国鉄で単線のため通学に1時間半かかりました。
大学時代に夫となる人に出会った
夫は中野慶理。ピアニストであり、同志社女子大教授。
1983年国立ワルシャワ音楽院を首席で卒業後、ジュリアード音楽院大学院(ニューヨーク)修了。
5年に及ぶポーランド留学で夫が国立ワルシャワ音楽院2年生の時、当時大学4年生の私が夏期留学で同音楽院を訪れ、初めての出会い。20名ほどのツアーでショパンの講座を受けるため私が同音楽院に短期留学した時のことです。音楽院でレッスンや講座を受ける時に私の通訳(ポーランド語の)をしてくれたのが夫でした。
翌年にはポーランドの情勢悪化のため、日本からのツアーが困難になり、逆にワルシャワ音楽院の教授陣が当時の相愛女子大学にレッスンや音楽講座開催のため来日されることに。この時夫が通訳として随行し、私との再開がきっかけとなり、日本とポーランドの遠距離交際がはじまる。 その頃、ポーランドの情勢はさらに悪化し、戒厳令が発令され、唯一の通信手段であった手紙も滞った時期もあり、不安な思いをいたしました。1983年夫は同音学院終了後帰国し、再開から2年間の交際を経て結婚。結婚後(同年9月)ニューヨークのジュリアード音楽院に夫が単身留学。 1985年に卒業後帰国し現在に至る。
三田であったからこそ存分にピアノに集中でき、今の自分のピアノがあると夫は申しています。夫も三田が大好きです。
又、三田の暖かい皆様に支えて頂いたからこそ今があると心から感謝致しております。
卒業後自宅でピアノ教室
大学在学中から自宅でピアノレッスンを始め、今年で41回目の生徒の発表会を迎えます。子供さんのピアノのレッスンの他、高校の音楽科や音大受験に必要な副科目(ソルフィージュ、楽典)のレッスンもしています。
今、改めて思いますことは、このレッスンの仕事を長年続ける事ができて本当によかったと実感致しております。音楽を通して生徒さんとふれ合いが出来るこの仕事に生きがいを感じています。
生徒さんが音楽好きになられて、いい方向に進んでゆかれますことを願い、日々反省しながら努めております。
地域では
主人があちこちの学校や地域にお声をかけて頂いて演奏に參ります時はいつも同行し、演奏会を通じて皆さまとふれ合えることにとても嬉しく幸せを感じます。
私は生まれ育った三田が大好きです。
夫は地元の三輪小学校では何度も演奏させて頂きました。
家族は
中野夫婦と母親(3人)の同居
母も有馬高校卒業です。