思いがけず谷口亮悦画伯(農38回卒)の展覧会会場でお会いして取材する約束が出来、小春日和で山々が紅葉で美しく輝いていた日に訪問することが出来ました。

平成23年度「産業功労者表彰」(神戸市)。平成23年度「緑白綬有功章」(大日本農会)。
昭和60年「毎日21世紀賞」(毎日新聞社)原稿用紙50枚の応募論文に入賞したのが特にうれしい出来事だったと話して下さいました。

担任は団野先生でいつも気に掛けて、何時までも色々心配してもらい、平川先生には卒業してからも金田一京助編纂の辞書や四文字熟語の辞書や先生の奨めの良書を取りに来るようにとのハガキが来て、「じょうくん。じょうくん」と可愛がってもらい面倒見てもらった。常深先生からは「何くそと 今日一日も暮れにけり」という先生の座右の銘を譲り受けました。平成29年の春に65年ぶりに宅急便が届いた。恩師神沢亀貴先生から本や額縁入りの蝶の折り紙・切り紙を送って頂いた、「君は私にとって忘れられない生徒だった」とありました。その夏、先生のお宅を訪問し。お逢いして昔話などし、楽しい時をすごされましたが、一昨年の12月に亡くなられました。

修学旅行は日光の中禅寺湖に友とボートで漕ぎ出て、霧のため捜索願を出された事が忘れられない思い出となったそうです。
部活は文学部。生徒会活動ばかりやっていた。知らぬ間に生徒会長に推薦されてなったが当時の生徒会は成績が優秀な人が選ばれ生徒会主導で行う行事が多く活躍できたと思っているし、。私達の校歌は生徒会が募集して出来たとお聞きしました。
文化祭、弁論大会、運動会は楽しかった。大声で応援歌を歌い二度とあのような大きな声を出すこともないと思っているとのことでした。

卒業して地元の農協に勤め、勧められるままに県職員の採用試験に応募された。昭和37年に兵庫県職員(農業改良普及員)に採用され、最初の赴任先は津名農業改良普及所で、「渡し」と呼ばれていた小船で明石港と岩屋港との連絡船に乗り、普及員としての第一歩を踏み出されたのです。
そして社・三木・神戸・八鹿・加古川・姫路・柏原と赴任され、それだけに県下の農村事情に精通されています。
昭和42年に普及員国内留学研修で三重大学にて学び、
昭和58年に兵庫県自治体職員海外研修でヨーロッパの豊かな伝統に学ぶべくイギリス他七か国をめぐり見識を深められました。
37才で普及協議会の会長を4年間同職を務められた。その時の難しい運営経験を支えたのが常深先生から頂いた座右の銘でした。絶対負けないという根性が出来たとのことでした。
平成8年退職。
退職を前にして、多くの同僚が私の普及活動記録や依頼原稿、応募論文などを保管していて、何とか冊子にまとめてほしいという奨めで『きずな』と名付けた一冊の本が出来たとのことです。
その中の【忘れ得ぬ人びと】は、此れまで沢山の方々との出会いが一番の宝物という想いで載せられたものです。

退職後2年間農村整備公社、その後、兵庫県花卉協会の事務局長で4年間、花卉普及員を束ねて「淡路花博」会場を彩る花苗供給の裏方を務められました。これらの役職を終えて神戸市の農業委員9年間、その内の3年間神戸市農業委員会会長をされました。

今は老人会のお世話を一期。その後念願の農業を楽しんでおられます。
奥様は書道が趣味で、筆を握り白紙に向かうのが楽しみとのことでした。

有馬高校らしい樹であるセンダン「センダンは双葉より芳し」の言葉の意味を生徒達に伝えてもらいたい。との要望をお聞きしました。
昔話は尽きません、思いがけず時間が経ってしまいました。ご自宅の前はとても見晴らしがよく、毎日この景色を見ておられるのだと思い感慨深く見ておりました。

(執筆 羽渕和美)