山田 茂さん(農林27回)
今回事務局にお迎えしたお客様は、昭和4年に三田農林学校を卒業された山田茂さん(農林27回)です。 昭和初期の農林学校の様子などについて、寄稿していただきました。
恩師の想い出
入学当時(昭和4年)の学校長は、辻川巳之助先生であった。 学校の至るところにゲンノショウコが植えてあって、昼のお茶もゲンノショウコを煎じたものである。 下痢も止めるし便秘も防ぐという効き目がある野草である。
三田の鍛冶屋町に八田と言う菓子屋があったがその店から「ゲンノショウコ煎餅」が三田の名物として売り出されていた。
また入学と同時に、 太い1メートル位のわら縄を各自持参し、毎朝朝礼後全員パンツだけの裸になって、この荒縄で全身の皮膚が赤くなるまでこする。 所詮荒縄摩擦である。これが終わると裸のまま腹式深呼吸を行い、その後正座して心の力を朗続する行事が行われた。 不思議にこの行事で風邪をひいたものはなかった。先生は退職後滋賀県へ帰られた。
次の校長は県農から山口篤蔵先生が着任された。
先生は作物病理や昆虫の専門家で、私たちは一年間病理と昆虫を教わったが、 病理では特にイモチを、昆虫では特に稲の二化螟虫(ニカメイチュウ)を微にいり細にわたって教わった。 略画が大変上手で解りやすい指導であった。 教頭は岡田芳穂先生で、育種が専門であり、稲の交配による多収品種の作出に懸命であったが、上郡農学校の校長に転出された。
その後に着任されたのが、県の農事試験場園芸部長であった立石恒四郎先生である。 先生は特に菊の栽培に造詣が深く、2、3の著書もあり、菊では全国的に知られた先生であった。 三田から奈良県立添上農学校の校長として転任されたが、定年退職後は明石に帰り、剛の池の菊花栽培場で菊作りを指導された。 現在の明石公園での菊花展や菊人形などは、先生の菊づくりから始まったものと思う。
又国語では、新傳次先生が印象にのこる。 190センチの長身で柔道初段、教科書を一冊もって生徒の机間をまわりながらの講義である。 先生の質問に一寸まごつくと 「お前はどこの学校を卒業して来た。よくそれで卒業出来たな」 といわれるのには閉口したものである。 また教科書に、島崎藤村の七五調の晩春の別離という詩があった。 先生にこれを暗記出来るまで読めといわれ、懸命に暗記したものである。今でも
時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらん
恨(うらみ)は友の別れより
さらに長きはなかるらん
君を送りて花近き
高楼(たかどの)までもきて見れば
緑に迷ふ鶯(うぐひす)は
霞(かすみ)空(むな)しく鳴きかへり
白き光は佐保姫の
春の車駕(くるま)を照らすかな
位までは暗唱出来る。これを暗唱すると、あの満々堤の上のせんだんの大樹や、木造校舎が眼前にうかんでくる。
山田 茂
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