当時の高校生活や学校の様子を教えていただこうとご自宅に伺いました。卒業アルバムを用意してくださっていたので、そのページを繰りながら、インタビューをすすめました。
 「前の古い校舎を潰して、新しい校舎を建てていって、私らが通っている3年間は工事中でした」と言われる。農林学校―有馬高校北校舎と続いてきた木造校舎が、新しい4階建の鉄筋コンクリート造の校舎に順次建て替えられていった時期を過ごされた。「入学したときは、いま建て替わってますが、あれと同じ形で4階建が建っていた。入学試験を受けに行って1,2,3年とその校舎に入れてもらった」。いまも大きな建物が南北に並行して2棟ある。まず北側の教室のある校舎が、竹谷さんの入学する前年11月に完工し、12月からこの新校舎で授業が開始されたばかりである。入学されたころには、もうひとつの校舎の建設工事がはじまっていた。いまも職員室や図書室、作法室などがある南側の校舎である(本館と呼んでいる)。本館工事は竹谷さんが2年生の時まで続いていた。「木造校舎の解体工事よりも、建てる工事のほうが賑やか」だった。
 「いままで1学年8クラスできていたが、私らから9クラスになって、次の学年の子はさらにクラス数が増えて…、満々堤の前の木造校舎とか使って。私らは木造校舎に入っていませんが。クラス数を増やして欲しいと地元の声があがり」。有馬高校の生徒数急増期で、竹谷さんの17回生は9クラス、18回生は10クラス、19回生は11クラスと増えた。竹谷さんが3年生の時、全校生徒は1600人を超えていた。満々堤の前の木造校舎は農林学校の時代から教室として使われてきたが、最後まで残って使用された。
 「中庭の噴水は毎日あがっていた。前の校舎(職員室などがある)はピロティ方式や、ぜいたくな建て方したと、ここがはじめてやと聞きました」。噴水はいまはあがっていない。水もない。噴水の維持がたいへんだったと聞いたことがある。ピロティのある校舎(本館)は、完成当時、1階は倉庫・電機室・便所・小使室だけで半分以上はピロティである。小使室は当時の表現で現在は校務員室と呼んでいる。のちに倉庫などがつくられピロティも狭くなったが、いまは生徒の下足箱が置かれている。

1階がピロティになっており、写真では何も置かれていない。奥の校舎1階がみえる。


【補足】ピロティは「建物一階部分の、壁に囲われず柱だけからなる空間」(広辞苑)で、国内では丹下健三による広島平和記念資料館(1955(昭和30)年竣工)にはじめて用いられた。世界遺産にもなった国立西洋美術館(1959(昭和34)年竣工)にも用いられた。
 有高本館は1963(昭和38)年5月に竣工しているので、当時のピロティ建築を伝える貴重なものかもしれない。
 3年間、谷口千里先生が担任。竹谷さんは3組だが、「進学を希望するんだったら9組に行って一緒に勉強したら」と、数学や英語は9組に行って勉強したそうだ。そのようなシステムがつくられていた。
 3年生の時は1964年、昭和39年で東京オリンピックがあった年である。「10月10日朝、登校したら『きょうはオリンピックの開会式やから、学校にはみんなで観れるようなテレビはないから、家に帰ってテレビを観なさい。放送は昼からなので間に合う』と言われ、帰りました。前もって予告なし」。当時はまだ白黒テレビが多く、東京オリンピックを観るためにテレビをはじめて買った家も多かった時代である。第18回オリンピック競技大会(東京オリンピック)は1964(昭和39)年10月10日(土曜日)に国立競技場で開会式が行われた。午後1時ごろから各局で放送がはじまり、2時に選手団入場行進が開始されたので、竹谷さんら当時の生徒さんは間に合ったのではないか。
 「学校には大きなテレビが、2つの校舎をつなぐ渡り廊下のうち、東側の運動場(いまは体育館などがある)に近い方の2階の部屋にあって、体育の時間など、今日はオリンピックのこういう競技があるから、それを観ようかと。確かバレーボールを観たのを覚えている」。卒業アルバムの体育大会の写真をみると、当時恒例のバックボード、デコレーションにはオリンピックが反映している。五輪のマークは多くのクラスで使っている。写真からわかったものを次にあげてみよう。


 

「何年生のときか覚えていないが、三田市が“ミス三田”を募集して、決まったというので市役所からアドバルーンを揚げていた。それが運動場から見える。『先生、何であんなのするの』と訊いた覚えがある。先生が『三田市の宣伝みたいなもんや』と」。ミス三田の選出は、三田市観光協会が三田市商工会と共催で行っていた。
 竹谷さんの所属した3組の人数をアルバムで数えると54人になる。教室満杯である。「よう言われたのは、何も置いて帰ったらあかんぞ。夜学が使うから、お前らだけの教室ではない」。竹谷さんのホームルーム教室は1年のとき2階、2年で3階、3年で4階に上がった。
 「生徒数が増えて運動場もだんだん狭くなってきた」。当時の運動場は現在体育館が建っている周辺で、今日の校舎北側下のおおきな運動場も体育館もない時代である。体育館がないので、「多人数が集まる行事は校舎内でできない環境でした。入学式も卒業式も三田小学校の講堂です。入れるところがないから。農林からの講堂は床が抜けるとか言われて入ってはいけない」。アルバムには運動場で学年の集会をしている写真が載っている。
 「(桜の馬場の)坂上がって、(七曜橋をわたって)正門まで行かず、満々堤の堤を通って校庭へ出ていた。帰るときも」。満々堤の堤は、現在は防護柵によって通れないようになっているが、当時は通学路にもなっていた。国鉄三田駅などから歩いてくる生徒には、少しではあるが近道であった。
 新校舎には当時ならではの思い出もうかがうことができた。「中学校は木造平屋、トイレは汲み取り式。しかし新校舎は和式やけど水洗トイレ。高校入試のとき、トイレの前に並んで水洗トイレの使い方を教えてもらった」。「当時、盲腸になった子が、盲腸で入院した子が結構いた。校舎が出来たてやから、湿気がとれてないからと違うかと聞いたことがある」。
 「生け花クラブに入っていた。作法室には大きな机があり、南校舎の正門の扉を加工したものと聞いた」。「農業科の教室に化学か生物かの授業を受けに行った覚えがある」。「校舎の屋上には入学した時と卒業の時にあがらせてもらった」。
 「修学旅行は、九州でも北の方に行くか、南の方に行くか、どっち行くかと学校がきいてくれた。先輩は南の方に行った。南の方に行ってこうやったと、その報告がある。私らのときは北の方の希望が多かったので、北の方に行った。行きは船で、帰りは汽車」。
 「秋は体育祭。フォークダンスがある。3組は1組と一緒、2組が4組と一緒。だから1組の子とは結構仲がよい。入学前から、有高には仮装がある。これは伝統になっていると聞いていた。私は琉球舞踊を踊る人の仮装。どの生徒も何かの仮装をして、私はしないはナシ」。仮装は“表現競争”ともいったようだ。バックボードは、最後はグラウンドで燃やしていた。アルバムに高くあがる炎の写真がある。ファイアストームである。現在は行われていない。
 六甲登山は恒例の行事であった。「神鉄六甲登山口で降りて、歩いて登った。展望台まで。降りるときは有馬温泉へ降りてくる、マス池あたりに」。マラソン大会は、男女別で、学年順に1年、次に2年と走る。学校を出発、学校にもどる。「1年のときは成績よかった。成績は学年ごとについた。学校に帰ってきたら、相原校長から何番やと札を貰った。100番までは校長先生が番号札をくれる」。
 高校を卒業後、進学して栄養士の資格をとられた。進学先は家から通える範囲で探し、就職も家から通えるところが条件になった。同級生で高校から就職した人は、三菱電機の伊丹工場、銀行、百貨店などに多くいったそうだ。竹谷さんは、三田市役所の横にあった三田給食が募集していたので、そこに就職された。その後、三田市民病院へ。当時は桜の馬場にあった(いまは駐車場になっている)。つぎに異動で保育所勤務。さらに市役所内の市民の健康を守る部署へ。市が市民健診を推進していた時代で、市民健診結果を受けて、健康増進のための指導をする仕事をされた。保健所と農協と市が地域を分担して健診をすすめたそうだ。いまは兵庫六甲JA三田女性会の会長として忙しくされている。

執筆(上垣 正明)