坂上 坦さん(有高13回)
高校時代は柔道一直線
昭和33年入学当初は卓球部とコーラス部に入部。しかし下校時に道場の側を通りながらいつものぞいて帰っていたところ、伴野先生に勧誘され6月に柔道部に入部されました。それ以後、柔道に取り付かれ、何よりも柔道優先の生活が始まりました。実力もメキメキと付き、秋には初段を取られて、さらに夢中になられたそうです。その後は、各地区・県大会で活躍されましたが、特に3年時県大会で個人3位になられたのが良き思い出だそうです。
2~3年は山田先生(数学)が担任で、難しい数学を丁寧に教えてもらったことや、冬のストーブ当番の時、石炭を他の組より多めに傘に入れて取りに行ったりして悪事を働いたことも強く印象に残っているそうです。
卒業後は関西学院大学経済学部に進学。柔道部に入部すると、偶然にも伴野先生の後輩にあたる伊藤浅吉先生(8段)の教えを受けることになり、更に力を付けられ、2回生よりレギュラーとして色々な大会で活躍され、そして3段となられ、卒業後には4段を取られ、現在は5段になられています。
大学卒業後、日本セメント(現 太平洋セメント)の関連会社である、窯業系建材メーカーである日本イトン工業株式会社(現 クリオン社)に入社、大阪支店に勤務されました。
関西方面ではあまり実績のなかった会社を取締役大阪支店長としてシェアを伸ばし、平成10年に東京本社の常務取締役、平成12年三社合併によりクリオン株式会社(資本金55億円)となり、平成15年に専務取締役となられ、会社の経営の中心的な立場となり活躍されました。その間、厳しい経済情勢の中で合併によるリストラや営業責任者として全国を駆け回る多忙なスケジュールをこなし、業界ナンバー・ワンの会社に成長する大きな役割を果たされました。平成19年に6月に退任され、その後1年間顧問に就かれ、平成20年6月に退職されました。
10年間の横浜での生活から、今年3月に三田に戻り、現在は、昭和63年に購入された富士が丘の家で、恩師の娘である奥様とご夫婦水入らずの生活を送っておられます。長女、長男は既に結婚され横浜と豊中に住んでおられて、それぞれ1歳半と7か月の男のお孫さんがあり、日を追って可愛くなるお孫さんに会える楽しみと、三田ののどかな田園風景の中でゴルフを楽しみながら老後を健康に送れる幸せを願っておられるそうです。
(文責:谷郷賢明)
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