大西勲さんは1952(昭和27)年4月農業科に入学され、1955(昭和30)年3月に卒業されました。幼少の頃から戦中戦後の男社会の厳しい上下関係を眺めて来られたご本人にとって、義務教育を終え、赦された高校教育の現場とは言え、鉄拳(ビンタ)の1つもとんで来るのではないかという緊張感もあったのだろうか、上級生の皆さんがとても1つや2つの年齢差とは思えない先輩に見えて、「頼もしくもあり緊張もした入学当初」との開口一番の言葉でした。
 もう一つ特筆すべきは卒業アルバムのこと。平川先生が本校の90周年誌に寄稿されているお言葉を借りると「昭和27年度生(第7回卒業生)は卒業アルバムを手に出来るようになり、生活にも若干の余裕と温もりが生まれて来た」。そして付されたアルバムのタイトルが“轍 Wadati”-その持つ言葉の意味は、車の輪の跡(辞海)、即ち歩んだ記録の意。「全くアルバムにピッタリ。デザインは美術の安本先生が担当、本当に学年挙げての創刊。当時の感動が沸々と甦る。」(次の写真はアルバム表紙の上半分)


 後日、大西さんの住む地域で大規模な土地改良事業が行われた際のことである。川が地域を迂回していたことから生まれた“川除”の地名をも一考させかねない、武庫川の直線化(ショートカット)。地域挙げての大事業の土地改良アルバムにも引用、ネーミングされたとのこと。それ程この平川先生の“轍”が気にいられた様子でした。

【補足】武庫川の直線化(ショートカット)といわれて何のことかと思われる人のために地図を用意しました。上の地形図が昭和62年、中の地形図が平成4年です。中央の武庫川の流れの変化に注目してください。そして直線化(ショートカット)された現地に記念碑・説明板が設置されている。下の写真は事業の経過を示した説明板の一部である。


そのアルバムに基づいて話をすすめる事にしたのですが、多弁?な大西さん、度々の脱線、その話題の中にも新発見がありました。

 「まず校門ですが、入り口の築山は農林学校時代から引き継がれた姿そのままだが、その前にある校門は文化的にも非常に価値のあるもの」だとか。三田農林学校から有馬高校へ籍を移し、併せて4年を費やして学ばれ、有馬高校第一回卒業生となられ、いま卒寿を迎えられた先輩のお話を大西さんがお訊きになった。「我々世代の前後の同輩が、三輪明神窯に出向き、三田青磁の窯跡から、ときには荷車に積んで運んだ。拘りを持つ先生の存在もあったのだろう」とのお話。「ここまでお話すると皆さんはキット“えっ!! ”とびっくりなさるでしょうが、そうなんです。」昭和24年法隆寺の金堂の炎上がキッカケで、その翌年文化財保護法が制定されるまで、規制もありませんでした。

【補足】 校門の由来について現在、校門横に説明碑が建てられている。写真からですが文面を読み取ってください。


 「そこで実例を1つお話します。」と語られたのが、当時、駅前の本通りに面していた当時産婦人科医だった上田病院である。「その窓の下一面に貼り付けてあったのが校門と同じ材料でした」と。ところが「それはもう何年になるのでしょうか? その昔三田の駅前で、銀座通りから駅前通りまでを焼き尽くす、大火事があったのです。珍しいほどの大火事でした。現在は駅前再開発ですっかり様子が変わっていますが、と言うよりもそれ以前に焼失していましたが、今の価値観ではとても考えられない“えっ!! ” ですが。お蔭でここに価値ある師弟合作の校門が存在する、このことを共有して大切に残したいものです。」

【補足】 『三輪区史』から駅前の大火災を紹介する。「昭和三十二年三月七日午後四時五十分頃、三田駅前通りの繁華街で…出火しました。…合計二十数台の消防車が駆けつけ、消火に当たり約二時間後に鎮火しました。…十二棟五百五十坪(千八百十五平方㍍)、二十六世帯を全半焼。百二十名が焼け出されました。」

 その校門をくぐった皆さんのお話。現在の世情からはとても想像もつかない当時の通学の様子をお話しくださった。
 「私達の頃は、(農業科の)通学範囲は男女とも南は口吉川から、北は猪名川の清水まで、皆さん自転車通学でした。その上農業科には家畜の世話は勿論、野菜の諸管理など、もの言わぬ命が相手ですから、始業前と放課後、各1時間農場当番(農当)がありました。夏も冬も四季を通じて雨の日も風の日も、そうして地面の凍った朝も、雪の日も、冬の短日も。想像出来ますか。そして通った3年間、三年生の頃になってやっと自転車にエンジンを付けてタイヤの回転を補助する人たちが、ちらほら現れ始めました。通学用定期バスでもあればと思いますが、とてもとても今からは想像もつかない社会情勢でした。」
 「私の級友に猪名川から通う、後に町長を務めた真田君がいます。彼の言葉を借りますと “我が根性は、有馬高校に通ったおかげで身に付いた”と、彼は後日語ってくれました。」
 「さもあらん、私達の過ごしたあの時代は学ぶのが当たり前ではなく、“学ばせて貰っている”感謝があったから乗り越えられたのでしょうか。お蔭で猪名川町も吉川町も、町長はもとより、町会議員さんもその大半を有高の出身者がお務めになった由。若い頃のこの環境が結果を生み出した。過言でしょうか? 皆さんのご努力に拍手を送ります。お疲れさまでした。」

 次に生徒会に話が移りました。
 「生徒会の話なのですが、当時の生徒会の役員選挙は年に3月と9月の2回(不確か)行われました。入学後最初の選挙が少し慣れはじめた9月に行われました。学年主任の西村先生から“これからは民主主義の時代、選挙を経験しなさい”と、ご推薦戴いたのです。勿論、会長、副会長と、当方は三番目に会計への推挙でした。本命は1年上の先輩でした。」大西さんは一年生で生徒会役員に立候補することになった。
 「演説は校庭ではなく、三田小学校の講堂をお借りしてでした。それだけでなく昼の休みを利用して、南校舎の先輩の皆さんの教室をご挨拶に廻るスケジュールも組み込まれていました。勿論先輩方の教室の訪問は初めての事でした。ある時、どこかで密かに                             「可愛いゝ」そんな声が。最初にも申し上げましたが、“先輩の皆さんは頼もしい皆さん!”との気持ちでいた当方、どこかでキット女性の先輩の多い南校舎、オドオドしている姿が、そんな風に映ったのでしょう。」「投票当日が来ました。所がとんでもない事が起きたのです。最後の開票で会計。先輩を一票上回ってしまったのです。申し訳なくて、彼は同じ柔道部の有段者でした。ビンタの一つも頂戴していればスッとしたでしょうが。些細な事と一笑して納めて戴いたのでしょうか。当方は今でも忘れられない出来事です。ご無礼どうぞお赦し下さい。」大西さんは2年生のとき生徒会長も務められた。

 次に伺った話は驚きでした。
 「私は運転免許証を在学中の昭和30年に取得させて貰いました。それも母校の校庭に、8の字を描いたコースで。これも当時の先生方のご厚意の賜だったのです。」「当時の農場周辺は市街化開発前。天神さんの鳥居が農場の北西の角に在りました。従って広く長い馬場があったのです(馬場は参道)。」「そこで上馬先生が始められたのが、やがて訪れるモータリゼーションの時代に備えての免許証の実技取得の実習でした。しかし当時の私はまさか自動車で我が圃場へ通う時代がホントウに来るなど夢の又夢。ましてや自宅に自家用車を常駐させる等、想像も出来ない時代でした。」「でも練習には参加したいとお願いはしたのですが、諸々の繁忙さで時折の参加で試験当日を迎えてしまいました。」
 「運動場に8の字のラインを引き、時間内の周回とバックをする実技試験でした。愈々私の番が来ました。何とか前進は無事通過。バックでラインを踏んだのでしょうか。“わーっ”と同級生達の歓声が挙がりました。その歓声に、検査に立ち会った市民に人気の警察官、笛を吹いたのか、かき消されたのか。でも結果は合格です。それからゴールド免許も戴きました。更新の度にありがとうアリガトウ…」「後日上馬先生にお伺いしました。あの出張試験は学校側から頼んで頼んでの実施だったと…。実業高校故の行政サービスでは無かったのです。」
 大西さんに当時の恩師の先生方の印象をお伺いしました。
 「とても個性豊かな素敵な先生方ばかりでした」との前置きの中で語られたのは、「まさか団野先生(国語)が現役の特攻隊員上がりだったとは。」「先生の授業を受講しましたが、生徒が何をしていようと一言の注意もたしなめもなし。淡々と自分のペースで授業が進んでゆくだけ。」「批判をする同輩もいましたが、卒業後相当時間を経て耳にした私。あゝやっぱりとうなずきました。死線を超えてきた者のみの悟りの境地だったのだろうなと、皆さん自覚を持ちなさいと、身をもって教えて下さったのだろうと。」「そうして事情で大学へ行けなかった私、最後の学び舎が、今でも色々思い出ばかり。携わって戴いた先生方、あえてお名前は申し挙げませんが感謝、深謝です。もっと当初に申し上げるべきでした。」
 「農業科に学び印象に残っているのは、入学時から課せられた、各家庭でのホームプロジェクト。」

【補足】 ホームプロジェクトは、自分の家や地域の農業との関係を考え、生徒みずから農業を計画し、教師の指導と家族の協力のもとに、家庭の農場・施設で実習・研究を行い、記録し、それを自分で評価し、反省し、今後の計画を立てる。またこの過程で農業の各種技術を習得しようとするものである。

 「私が先ず持ち帰ったのがミツバチでした。自分の家で蜜が絞れる、とても幸せ感で一杯でした。そして皆さんにお配りしてよろこんでいただきました。手をやいたのが分蜂です。高いところへ登り、群れを取り戻す。暫く放置すると何処か遠くへ、次の住処を見つけて飛び去るのです。時間との勝負でした。」「そして一年生でもう一つのプロジェクトは、鶏の平飼いをしておりました。」「そして二年生には豚を飼いました。その時祖父が小屋を建ててくれました。」「日露戦争の経験を持つ祖父でした。祖父も三田農林の前身で、有馬農業補修学校2回卒でしたから、言わば後輩ガンバレのメッセージだったのかなと、ふと思います。」

 アルバムの写真にもどろう。御池(三田小学校の南にある)で農業科の生徒が魚を獲っている写真が載っている。写真の上、池の後方に見える建物が南校舎(もと三田高等女学校)である。


 「1年に1回ずつやっていた。秋の農作業を済ませたあと、いったん水を抜いて泥抜きをする。そのときに魚を獲る。当時はたんぱく源がないので、栄養を補うため学校が御池で鯉を飼っていた。」「御池の鯉は売りに行ったかなあ。先生が売ったとか商売人が入ったとかは知らん。学校で鯉を食べた記憶はない。」

【補足】 当時発行されていた同窓会報「清陵新聞」(60周年記念号 昭和31年8月10日付)に、清陵会員が「鉛色に光る養漁池を中にして、われらが母校、有高の北校舎と南校舎が、静かに立ちならんでいる」と書いている。“養漁池”とは御池のことである。

 “六甲植林”という写真が載っている。多くの生徒が荷台に乗って、車が六甲山中を進んでいる。


 「戦争でハゲ山になっているところへ、原田先生がリードして連れて行ってくれた。山の位置や樹種まではわからない。山で水をかけるわけにいかず、“深く穴を掘って”といわれた。何回も行ったものではない。戦後の復興事業やったのと違いますか。」
 アルバムには体育大会のページがある。
 「体育大会には仮装行列があった。アメリカの水爆実験で被ばくした第五福竜丸事件の仮装をやった。」マグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁で操業中,被ばくしたのが1954(昭和29)年3月のことで、大西さんが二年生を終わろうとしていたときである。「仮装はたいしたことないが、タイトルと解説がよかったと言われた。」

 高校卒業後に話が移りました。
 「卒業後、普通は1頭入れる牛舎に2頭を飼育、忙しく下敷きの堆肥交換に精を出したのも思い出です。」「あるとき競り市で、愛牛と競りの場に。恥ずかしかったなあ。」「こうして当初は家畜を飼うことに精励してきたのですが、当時大はやりの酪農には何故か縁がありませんでした。ところが又ここで不思議な親父の導きみたいなご縁に出会えたのです。」
 「当時、兵庫県農業試験場宝塚分場で交配したので宝交早生と命名された苺が、その順応性からクリスマス苺として開発され、地元兵庫より先に各地で栽培が広がろうとしていました。その時、三田で一足早い苺のハウス栽培の実践者が、父(三田農林昭和5年卒)と同級生だった、虫尾の大原喜市さんだったのです。その事が私の決断を一層早めました。」

【補足】 宝交早生の開発者は、三田農林昭和15年3月卒業の藤本治夫さんである。有馬高校の『創立百十周年記念誌』に、「世界的に注目を集めた苺の「宝交早生」 Xマスケーキに苺がのるのも藤本さんの功績」と題して紹介されている。同誌は三田市立図書館でお読みいただける。

 「苺は先ず苗作りに精をだし、初秋に冷蔵庫に入庫、充分冬眠した如く錯覚させ、ビニールハウス内で春の訪れを感じさせる。それが栽培の基本。宝交は休眠時間も浅く促成向きですが、一方柔らかくて店持ち(タナモチ)しないのが玉に瑕、陽の昇るまでに収穫を済ませる必要があったのです。」「幸い近隣の皆さんに収穫のお手伝いをいただき、本当に毎朝、大勢の皆さんにお世話になりました。そうして始まった施設園芸、夏は路地トマト、冬はハウス苺、そして稲作。」「更に、君は“家にいるんだから時間のやり繰りがつき易いだろう”と押しつけられた社会奉仕。」
 「本当に多忙を極めました。冬から春にかけて苺の収穫出荷と朝夕のカーテンの掛け外し。日中はハウスの窓を開閉しての温度管理。夏はトマトの脇芽かぎ・誘引・薬剤散布は勿論収穫。そして両シーズンの間隙をぬって、トマト・苺の育苗管理等々」「ある年、支柱準備出来ないまま竹を素挿して妻がトマトを定植。ところがその直後強風にあおられ殆どが倒伏。 何をしても“先手必勝”、ところが我が家は、後手後手、私は“寝る間を惜しむな”と自分に言い聞かせ、妻の助力を貰いながらおくったあの多忙な日々。」

 話は急展開します。
 「私の家は学校の真正面、さきに通学路で話題にした皆さんたちからみると凄く恵まれた位置にあるんです。言わば地元です。そうです、だから移封後、母校の高台を城主とした九鬼さんと、川除の関係について語らせていただきます。」
 「九鬼水軍が、外様故に鳥羽から海の遠い三田へ移されたのですが。その時点で未だ陣屋が出来上がっていなかったのです(正覚寺にもその伝説が残っています)。そのため分散して逗留先を決め。当時の川除にはかつて有馬郡一圓を支配した松山弾正(後に福井と改名)の子孫の大邸宅がありました(現在の公会堂に)。そこを拠点して暫く陣頭指揮。そうして陣屋ができあがった後も通い続けた所以で、御殿橋の名前が付いたのです。しかし実際に橋が架かったのは昭和12年、築堤もその際とのこと。」「なるほど、子どもの頃、川の少し内ら側の溝に沿って生えた背丈を越す笹が、所どころ結わえられた生け垣があった。アレが川からのゴミを除く為の工夫だったのだと頷けます。」「その際にも、川のショートカットの話が持ち上がったそうですが、その時は“川が除けているから川除”で決着したそうです(昭和11年、下田中はショートカットを受諾、施行)。」

【補足】 「有馬郡一圓を支配した松山弾正」―松山弾正は南北朝時代の人物と伝わります。「有馬郡一圓を支配した」ということには諸説あります。

【補足】 下田中の武庫川のショートカットといわれて何のことかと思われる人のために地図を用意しました。上が昭和4年、下が昭和42年です。中央の武庫川の流れの変化に注目してください。

『武庫川上流史』によると、「武庫川は…大きく蛇行し、山田川合流付近に向けて半円を描くように流れていた。昭和十五年にこれを直線で結ぶという大工事が行われた。…河川改修によって不用となった寺村、下田中間の旧河川敷は、戦時中の食糧不足を少しでも解消しようと昭和十九年十二月より埋立て開墾を行い、昭和二十一年三月に五・六ヘクタールの水田が完成した。」 “直線で結ぶという大工事”のことを、“ショートカット”と表現されています。

 話は続きます。
 「皆さんご存じと思いますが、三田農林の教諭だった藤園 丸先生。後に三田市内12校園の校歌・園歌を作詞され、長坂中で校長を務められ、湊川女子短大で教鞭をとられるなど、三田に大きな足跡を残された先生です。その先生が人生後半をご縁があって川除でお過ごしになりました。当時川除に6人の先生の教え子がおいでになりました。そして「佇む」のタイトルで短歌集を発刊されたのです。」
 「その中に川除の圃場整備前、武庫川の内懐に囲まれた42町歩が鏡の様に照り輝き、そこに夕日を移し込んで沈み往く黄昏を歌い込んだ歌。一年に一度の光景を謡った歌がありました。
 “さびらきをあしたときめて水張れる田 づらべうべうとして夕焼けの照り”
“さびらき”―早苗開き、田植え始めの意。“べうべう”―水の果てしなく広がるさま。夜明けとともに始まる騒々しさと、その前夜の静けさとの対比です。」<事務局補足―歌の表記は次に説明される歌碑に刻まれた文字に合わせました>
 「当地域では、現在でも植出し日がまもられています。この短歌を(土地改良事業の)記念碑の正面にと思ったのですが、“藤園過ぎる”とたしなめを受けました。が、脇に歌碑の建立が許されました。伝え聞いた他地域の先輩が、 “よくやってくれた”と。」「思わず“先生、この歌素晴らしいですね”と声をおかけしました。“君、そう言ってくれるか”、そんな言葉が返ってきました。丁度区長を拝命していた時でしたので、6人の教え子をお誘いして細やかな発刊祝いを開きました。」「そうしましたら
 “佇まう我をねぎらえり北摂の 山河も人も皆情けあり”
先生ご趣味の押し花の額に入れ、返礼がかえってきました。これは川除の当事者だけでは無く、鹿児島から赴いた三田、その生涯をお過ごしになった三田。その間に接しられた全ての皆さんへ、更にその山河への返歌です。繰り返します。山河も人も皆情けあり。かかわられた全ての皆さんへお礼のことばです。」

【補足】 藤園先生と農林学校について、有馬高校『九十周年記念誌』に藤園先生が「ある追憶―樹々哀歓―」と題して寄稿されている。また有馬高校『創立百二十周年記念誌』に「藤園丸が詠んだ三田農林」と題した文章を載せています。同誌は三田市立図書館で読んでいただくことが出来ます。次の写真の手前が藤園先生の歌碑です。


インタビューは終盤にさしかかりました。
「不思議なことが、間もなく米寿の私に、清陵会からの取材が偶然にも訪れました。よくよく考へると何だか父が与えてくれたチャンスの様な気がして。父が出征して80年、あの逆境から今日までよく乗り越えられた、数々のご恩、お礼を申し上げなさい―そんな声が。」
「アレは昭和18年3月初旬のことでした。当時、父は農業の傍ら青年学校の指導員を務め、32歳、もう召集令状は来ないかもと思い始めた時のことだった。ところが皮肉にもその直後、三輪の役場から召集令状(赤紙)が届いたのです。」
 「昭和17年6月、ミッドウェー海戦で日本が大敗を期し、昭和18年2月、ガダルカナル島でも大敗。急遽作戦変更、如何に早く将兵をあつめるか緊急の作戦で、3月10日に姫路に入隊せよとの命令でした。きっと父も母もびっくりしたでしょう。」「2、3日の内に8反ほどの田を人に預け、自作地を1町にして“勲が卒業したら返してやって下さい”とお願いしました。当時は反別に応じて裏作の麦が割り当てられ、1町近く作付けをしていたのでしょう。」「更に母は弟を懐妊中、間もなく出産予定。私は幼稚園を卒園、4月から一年生、祖父母は病弱、農繁期の直前、どんな心境だったのかとても想像が付きません。」
 「“勲 、農林学校を卒業してこの家頼むぞ”―黙ってですが“ウン”、心は決まりました。」
「そして国民学校から帰ると牛の世話、白水沸かしや煮物炊き、おさんどん時はジャガイモの皮をむいて油炒め。」「母の記録を見ると、麦の供出は皆さんに手伝って貰って割り当ては完納と記しています。」
 「そして迎えた昭和20年東京大空襲、その3月10日、ビルマで父は戦死。8月15日、戦争終結。」ところが「10月9日、三田の大洪水。裏山が崩れ、松の木が家に突き刺さり。武庫川が決壊、我が田が河原に。“貧すれば鈍する”―地でゆく出来事。出征兵士の家、皆さんのご助力あればこそ。いま思い起こしても…。感謝で言葉が見つかりません。」

【補足】 10月10日に鹿児島県阿久根市付近に上陸した阿久根台風の影響で、台風接近前から降り出した雨の被害がとくに兵庫県で甚大であった。『武庫川上流史』によると、「市街地は全部浸水した…最初下流から逆流して浸水し九日午前八時頃までは大海原となって上流へ流れており、駅前通りで約一米位の水浸となった。その時武庫川が現市役所の上流で約六十米決壊し市街地が本流の如く流れ出し」「相生橋流失」「死者4、行方不明7」とある。『三輪区史』にも紹介がある。

 「でも卒業の昭和30年は大豊作の年で、それまでにない記録、反収平均600㌔(4石)の驚くような大豊作年でした。」「初めて村の集会に出席する私に母が掛けた言葉が“後家育ちは三文安、よく学べ”―女手で育った子どもは世間狭いとの意、現在では差別語。確かに生き方の手本無し、困りました。結果、男の人を見ると生きる手本として眺め、良いところを頂戴する。そんな人間になっていました。」
 「そんな間もなく昭和30、2、若しくは33年の頃、祖父は逝き、県道が国道に格上げされ、176号線の改良工事が施工されることに。我が田の4枚並んだ長方形の圃場の隅から隅へ4枚の圃場が油揚げの8枚に。」「母曰く“国は夫を召し上げたその上、土地まで取るのか”と悲しみました。」「そして国道開通。少し小高い未舗装の道路から舞い上がる砂埃が両サイドの稲を真っ白に、そこへ顔を突っ込んでの撫で草。『為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは 人の為さぬなりけり』―お経のようにくり返しながらひたすら精を出すのです。」「一方、改装成った新道路をカッターシャツで颯爽と通勤する若者達。だが父との約束をどうしても違えられず、百姓一筋を貫いた私。」

 「こんなこともありました」と遺族会の話に。
 「遺族会は母の担当と、母任せにしていました。しかし平穏に見えた当時遺族会も後継者をどうするかが大きな悩みだったと想像します。そんな事情があってか、当時遺族会長を務めて下さっていた市議会議員さんが(勿論元市会議長)が足繁く当方へお運びをいただき、少し下火になっていた青年部活動を再開するようにとの催促でした。しかし当方には子どもたちの学業その他諸々があって、そんな時間も無く断り続けていたのですが、ある時のこと、ふと義理に詰まって、三田市主催の追悼式に運びました。」「そこで圧倒されたのが追悼の歌でした。『千里の外に出で征きて 国のみ為に闘いし 功もしるき ますらおの 山ぬく力いま何処 アアアアいま何処』 ―そして自分は生きている、身を賭して平和を求めた父は天国に、その平和な社会に私は生きている。涙がこぼれ、父の心に寄り添わねば、何度聴いても何年たっても追悼の歌を聴くとこみ上げてきます。」「そして奇しくも、思いもしなかった三田市遺族会の会長を務めさせていただく立場に。おかげで学ばせて貰ったことが多くある。」と、続けて日露戦争ごろから太平洋戦争、東京裁判までの歴史を語ってくださったのだが、紙幅の都合もあって略させていただいた。大西さん、申し訳ありません。
 大西さんは遺族会の分会の仕事も担当された時期がある。
 「遺族会の三輪分会の事務を14、5年(含上馬先生分会長時代)させて戴きました。その際、開会時間を承知し、あゝもう時間と思いながら、会の次第を自宅でプリントしていました。文案は勿論、校正も無し。一度も叱責、指摘も無し。諸々の過ちを袖の下に? ご寛容下さったのです。思い出すだけで赤面します。度量の深い皆さんに囲まれての今日があることに深謝、多謝。」

 時間が随分経ちました。大西さんの次のひと言で終わりとしました。
 「丁度ロシアのプーチン大統領によるウクライナへの侵攻が始まっていますが、テレビをとおして戦況をながめながら、その悲惨さが蘇ります。日露戦争から百年以上、リーダーの“こだわり”―間違った意固地さがどれほど善良な市民を不幸にするだけでなく、命まで奪ってしまう最大の不幸。歴史は繰り返される、この真実。」

(執筆 上垣正明)