ご自宅を訪ねたとき、今秋使用した農機具の保守掃除中でした。作業の手を休めインタビューに応じてくださいました。
―高校時代の思い出
1960年代後半、当時農業科と園芸科が一クラスずつあった時代で、農業科に入学されました。担任は米田先生で、化学を教えてもらった、よく怒られたと振り返られた。高校時代の思い出は卓球だそうです。中学校では吹奏楽でホルン担当でした。高校では三年間、卓球部。卓球は高校に入ってからはじめたが、中学から卓球をやっている先輩がたくさんいた。その差は大きく、試合でも出場できるのは一~三年含めて五人なので、三年間補欠。他校との試合には出してもらったことがない。三年間で最初の一年間半ほどは素振りと球拾いばかり、そういう時代でした。しかし、仲の良い友人がいたから、いやにならなかった。友人とは一緒にゴルフに行ったりして楽しんだ。しばかれた、正座させられたというようなことはなかった。いい先輩ばかりで、かわいがってくれた。三年の秋季大会で引退した。楽しかった思い出が一杯の卓球部だったようです。
―卒業後、会社勤め
高校三年の八月(1968(昭和43)年)に阪急電鉄の採用試験を受けた。試験会場は大阪の関西大学で、数百人~千人以上の受験者がおり、高倍率だった。高度経済成長中で、二年後の1970(昭和45)年3月15日から9月13日まで大阪の千里丘陵で大阪万博が開かれた。阪急電鉄も乗客の輸送などで多くの駅員がいる時期でもあった。神戸線で30人ぐらい、宝塚線で20数人、京都線で60人ぐらいが採用された。当時100人以上の有高の先輩が社員として働いていた。いまでも社内の同窓会が行われているそうだ。
梅田駅で改札担当がスタート。当時一日60万人の乗降客があった。自動改札になるのは大阪万博の年、北千里が最初、就職したときは、自動改札は未だだったので、改札に駅員が多く必要な時代だった。阪急百貨店の下に改札があり、多い乗降客に改札の仕事は大変だったそうです。ついで車掌試験を受けて車掌に。車掌で25年ほど。43歳で助役になり、駅の勤務に。梅田駅の会計も担当したが、パソコンのない時期ですべて手作業のため大変だった。拾得物の扱いでは、1円の預かり状を発行していなくて怒られる体験もあったそうだ。定年は西宮で迎えられた。宝塚南口、小林、夙川などで働かれた。
―定年後
JA兵庫六甲の広報誌『Wave Rokko』に前中さんが2回紹介されている。2回目は、玉ねぎ畑で除草作業中の写真が掲載された。定年後、会社は63歳まで雇用可能と言ってくれたが、会社勤めに区切りをつけ、自宅周辺にある農地で米や野菜づくりに専念。玉ねぎ、大豆(白)、ブロッコリーを栽培しはじめた。玉ねぎは最初二千本ほど種蒔きからやっていたが、これが大変、いまは一万本の苗を購入しているそうだ。JAに出荷したり、JA支店で月一回15日に開催されるマルシェで玉ねぎの詰め放題を行ったり、有野の「農協市場館 農野花」に出荷することもあるそうです。道場小学校近くの田で小学生が田植えと刈り取り、また小学生が大豆の種蒔き、移植、収穫を行い、途中の管理を前中さんらが担当。
ここまで話が及んだ時に、地域の正午を伝えるサイレンが鳴り、インタビューも終わりに。前中さん、たくさんの思い出話をありがとうございました。
(執筆 上垣 正明)