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奥川 洪観さん(有高14回)

神戸市の最も北部、吉川町との境近くに位置する、神戸市北区淡河町神影にある真言宗竹林寺に、住職の奥川洪観さんをお訪ねしました。

外から観ると立派に改修された茅葺の大屋根、中へ案内して頂くと内部は昔の造りを残しつつも機能は今の時代に、そんな趣のある執務室で早速有高時代のお話をお聞きしました。

クラスは2年から商業コースへ進まれ、女子が半数以上を占めていましたが、男子も臆することなく、お互いに和気藹々と非常に仲の良いクラスだったそうです。特に2年、3年と担任だった泉先生は、何かにつけて、「これからの時代は資格が必要だ。取れるものは全て取っておけ」と常におっしゃっていたそうです。それに応じられて、クラス皆が色んな資格に挑戦されたとか。

クラブ活動は1年から社会科クラブに所属され、動機は女子が多いのでと言われていましたが、近くは道場、遠くは篠山まで出かけて、皆熱心にお城の城郭研究をされ、その模型も造られたそうです。ご趣味の写真撮影もこの頃からでしょうか。このクラブも3年間しっかりと勤められました。

実家がお寺であったのですが、お兄さんが跡を継がれる筈が変更となって奥川さんが継がれることになり、その後の進路についても担任の泉先生に相談され、卒業後、真言宗立高野山大学に進まれました。お寺から大学に通い文学部社会学科で学ばれました。この時代は学生運動の最中でしたが、何につけても興味が有るものには顔を出すとの精神で、写真を撮りつつも運動に参加されたことも有ったそうです。そして、大学卒業と同時に地元へ戻られ、副住職として父である住職を支えられました。

その後、昭和63年に、京都にある大覚寺からの誘いを受けて財務部長、管財部長を勤められ、嵯峨美術短期大学の事務局長となられ、嵯峨芸術大学の誕生に尽力されます。その間10年を経て再び地元へ戻られ、現在は、竹林寺の住職と同時に近接の十輪寺、石峯寺も兼務され、お勤めと共に多忙な日々を送られています。

その温厚で誠実な人柄によって、これまでも、現在も地区内は勿論、保護司、有馬自動車協会会長、兵庫県自動車協会理事など多くの役職に就かれています。

「今こうやって多くの方々と接するようになれたのも、有高時代に泉先生よりいただいた、何事においても興味をもって突き進めとの教えがあったからでしょうね」と若き頃の有高時代を懐かしんで語っておられました。

 今も恩師、泉先生を囲んで当時の級友たちが、数年に一度クラス会を設けられているそうですが、出席者も多く、やむを得ず欠席の場合も近況のメッセージが届くそうです。このことからも当時のクラスが如何にまとまり有る雰囲気であったかが、うかがい知れます。次回開催時には、その様子を是非、清陵会のホームページに掲載されるように頼んでおきます。我々の知らない時代の、そして今の世代には無い魅力ある、生徒や先生方のお話に聞き惚れて、ついつい長居をしてしまいました。

(文責:岩野弘明)

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