市内高次のご自宅を清陵会事務局員で訪問、話をお伺いしました。

―まず空襲のことから教えてください
1945(昭和20)年7月19日、米軍機が国鉄三田駅、三輪国民学校周辺を機銃掃射する。このとき西浦さんは国民学校四年生。当時の学校名は“有馬郡三輪国民学校”で、1941(昭和16)年の国民学校令によって小学校は国民学校になっていた。いままで縁側でB29が上空を飛んでいくのを見ていた。ところがその日は空襲を経験することに。
「暑い日で、学校に行ってしばらくして空襲警報が発令されたので下校しろということになった」。「(犠牲者が出た)桑原の人は高次より遠く帰る途中、高次は学校に近く、家に着いていた者もいた。私は家に近づいていた。うちのまえの溝(農業用水路)に飛び込んでいた」。「頭の上を弾が飛んだ。ちょっと頭をあげたら弾があった」。「みんなは米軍機が2回来たという。私は1回しか見ていない。2機編隊でうちの前を通った」。パイロットの顔が見えるほどの低空飛行であったようだ。ご両親は家からは離れた田に、牛とともに水田の除草に出ておられたようだ。このとき西浦さん家をふくめ藁葺屋根の4軒の家が燃えた。「2回目の襲来のときに家が燃えたのだろう」。西浦さんはお祖母さんと裏山に逃げたそうです。ただ土でつくられた蔵は残った。大阪などから西浦家知り合いの荷物が疎開していたが、全部燃えた。「地元の公会堂へ寄せてもろて。食べるものがない。米がない。親が明日どこで米もろてと相談していた。長い間ジャガイモを食べた」。
公会堂もしばらくして出ていくことになったようだ。その後の様子を西浦さんが高校三年生の時に書かれた作文によって追うてみる。「敵機の空襲によって部落内で私の家を含め四戸が炎上、一瞬の間に総てが灰じんに帰した。それから一ケ月余、雨もりのする麦ワラの小屋で終戦を迎えたのだった」。家の復興のため資金が必要だった。「戦災からのがれた四羽の鶏が産んだ卵を町へ売りに行かされ、当時は一個が二〇円にも売れたので、これによって学費をまかなっていた」。「中学校に進学した時この鶏を増加することに決め、父の理解を得て名古屋から名古屋種の無鑑別雛五〇羽を購入した。…多くの困難を伴ったが、それでも三〇羽余りを育てあげた」。「私はわずか五〇円、六〇円の金を得るために汗水を流して働いた。そしてこの苦しい生活の中でも、私の生活を保証してくれた農業を職として精魂を打込んで行く決意をした」。インタビューでも、「空襲で明日食べるものに不自由する経験、これが農業をやる、生き残ったから地域社会に生きようとした原点だ」と語られた。

【補足】
西浦さんの空襲体験は次のような紙面でも紹介されてきました。
三田市広報「伸びゆく三田」 1995(平成7)年8月15日付 「戦後50年に思う 三田にもグラマン」
神戸新聞 2008(平成20)年8月16日付 「農家4戸全焼、児童ら5人が犠牲に 自宅を失った高次の西浦さん三田空襲語る」
神戸新聞 2015(平成27)年8月16日付 「破れた平穏―三田の空襲(中)」
神戸新聞 2020(令和2)年8月15日付 「「三田空襲」を聞く」
インタビュー時、YouTubeで三田空襲を語るんだと言われていた。それが2020(令和2)年7月19日にYouTubeで生配信された。SUNPEACE大向勲会長と西浦さんの対談である。インターネット上で視聴できる。

―小学校を卒業してからは
1947(昭和22)年3月、学校教育法が公布され、国民学校が再び小学校に、そして新制小学校と新制中学校が発足した。“有馬郡三輪国民学校”は“三輪町立三輪小学校”となり、1948(昭和23)年3月、三輪小学校を卒業された。この年4月に新制三田中学校が設置され、同中学校に進学、志願者は336名、入学者は230名の高い競争だったようだ。「担任の先生が、農業するんであっても三田中学校へ行っとけと」。「三輪小学校からは2,3人が進学した」。理科観測班で活動、修学旅行は四国で、香川県鬼ヶ島、屋島、栗林公園など。前述のように農業をやる意志をかためた西浦さんは、1951(昭和26)年4月、農業を学ぶために有馬高校農業科に進学された。

―高校に進まれての様子を
農業科は男子ばかり2クラス。しかし一年生の時は混合クラス。これは前年に着任した岩佐修理校長が、総合制の理想を追求して1951(昭和26)年4月に実行されたもの。一年生のときは農業課程、家庭課程、普通課程、男女を考慮せずクラスを編成された。一年生は全員北校舎(三田農林学校が使用していた校舎)で学び、二年生から農業科だけのクラスで過ごされた。一年生のとき(三組か)は担任の神沢亀貴先生からクラスの長をやれと指名されたそうだ。一年では、一般教科は普通科と一緒に勉強した。西浦さんのクラスは女生徒が圧倒的に多いクラスだったようだ。
「一年生のとき原田春男先生がいた。現在のぶどう園の向こうに2棟の寮があり、ここに住んでいた。農業実習中に抜かれて、家の掃除をしろ、洗濯物を干したりとよく使われた。西川善夫先生からは農場の仕事に使われた」。原田先生は1929(昭和2)年に県立三田農林学校を卒業、1947(昭和22)年、モンゴル抑留から復員、同年末、県立三田農林学校に着任、新制の県立三田農業高等学校を経て県立有馬高等学校と続いて教員として勤務され、1952(昭和27)年6月からは県教育委員会学校指導課指導主事に転出された。1967(昭和42)年から4年間は有馬高校の校長を務められた。西浦さんは原田先生に大きな影響を受けたそうで、先見の明がある人だったと言われた。原田氏は1929(昭和2)年に三田農林学校を卒業、1967(昭和42)年から4年間、有馬高校の校長を務められた。西浦さんは講演をする際には、あちらこちらで原田春男さんの話をしてきたそうだ。「いまも農村の課題の農地集積、そのことを私の高校時代から言われていた。農家は働きすぎ、生活優先の農家にならないといけないとも」。

―高校での農業の学びを
「入学と共に新しい農業教育の方針について話を聞いたし、また総合農業という言葉がその中にあった」(前述の作文)。戦後、アメリカから日本農業の改善のため新しい農業教育の方法が紹介され、ホームプロジェクト(家庭実習)、学校農業クラブ、総合農業などが導入された。「総合農業」は、当時の説明文を使えば「その地域の将来のよい農業自営者になるために必要な農業に関する教育の内容を,有機的に一つの学習体系に統合したものである」。「総合農業」の学習においては,ホームプロジェクト(家庭実習)が大きな柱になる。ホームプロジェクトは、自分の家や地域の農業との関係を考え、生徒みずから農業を計画し、教師の指導と家族の協力のもとに、家庭の農場・施設で実習・研究を行い、記録し、それを自分で評価し、反省し、今後の計画を立てる。またこの過程で農業の各種技術を習得しようとするものである。
西浦さんは一年生ではホームプロジェクトとして鶏の飼育を行われた。「沢山の収入があり、企業的には効果があったが、始めの計画と実施の記録がうまくゆかなかった」ようだ。二年生では乳牛の飼育をテーマにされた。「入学したころ、多角的農業経営の普及という三輪町の方針にしたがって私の家でも乳牛を導入した」。乳牛飼育のために自給飼料栽培の実験を自家の土地を使って進められた。三年生の時、三輪町酪農組合の牛の品評会で1等をとったとも教えてくださった。三年生では、ビニールを利用して育苗鉢によるスイカの育苗を行った。定植の時に根を傷めない方法としてビニールに着目されたようだ。3年間のホームプロジェクトを通して、西浦さんは卒業を前に次のようにまとめられている。「プロジェクトの題目を選ぶ場合は、このように私達が学校で学ぶ技術によって社会に奉仕するという気構えが必要であり、今の社会が解決を望んでいる問題を選択せねばならないと思う。これこそ真のプロジェクトではあるまいか」(前述の作文)。

―学校農業クラブと西浦さんの関りを
学校農業クラブは、アメリカから学んだ組織活動である。活動を通して科学性・社会性・指導性を身につけることを目標にした。野球部や演劇部のような希望者が加入するものではなく全国の農業科全員が所属する。西浦さんが高校に入学する前年の1950(昭和25)年に、兵庫県下の学校に「○○高校学校農業クラブ」が設置され、8月に10校の農業クラブが参加して兵庫県農業高等学校(当時の呼称)で「兵庫県学校農業クラブ連盟結成大会」が開催され、秋には東京の日比谷公会堂において「日本学校農業クラブ連盟」が結成された。
西浦さんが高校に入学した1951(昭和26)年から本格的に活動が全国で展開され、西浦さんも3年間学校農業クラブに深く関わられた。二年生になると、8月30日、第3回兵庫県学校農業クラブ連盟総会(於北条高校)で研究発表「会費無徴収の理想クラブ」、12月20日、第二回兵庫県学校農業クラブ弁論大会(於佐用高校)に出場。1953(昭和28)年2月1日、第2回兵庫県学校農業クラブ連盟主催ホームプロジェクト研究発表会(於神戸市立西神高等学校)で「自給飼料を主体とした肉牛の飼育」を発表、これが第1席入賞(最優秀賞)を果たす。校内では有馬高校学校農業クラブ三輪地区分会の分会長を務める。三年生では有馬高校学校農業クラブ会長を務められた。当時のクラブ役員選挙では、ホームルーム教室に入って立候補の演説をするなど、生徒会役員選挙と同じようなことが行われたそうだ。
3年間の活動は高い評価を受け、卒業した年の1954(昭和29)年11月、第5回全国学校農業クラブ全国大会(於日比谷公会堂)で、クラブ員最高の栄誉である級位「特級」の証書とバッジを授与される。「岩佐修理校長と銀河という汽車に乗って東京に行った」。銀河は東京―大阪間を走っていた国鉄の寝台急行、今回「WEST EXPRESS 銀河」の名前で復活する。兵庫からは兵庫県農業短期大学附属高等学校の卒業生1名と西浦さんの2名だけ。特級授与は第3回全国大会から始まっていた。西浦さんは、当時この時の喜びを次のように表されている。「“万感胸に迫る”という形容がそのまま当てはまる感激をしみじみと味わっています」。「この光栄を末ながく保つために努力する決意を新たにし、この感激は、私に対する一つのムチとして、今後を励ましてくれるでしよう」。

特級授与者-最前列中央が西浦さん

西浦さんは、これら以外にも二年生の時、第三回FFJ(学校農業クラブ)全国大会に参加されているようだ。「全国大会で発表したんだったか」と記憶が定かではないが、兵庫県の代表の生徒・教員の集合写真に写っている。昭和27年10月9日、10日、東京都神田の共立講堂で行われた。内容は現在とは異なる。協議題「学校農業クラブの活動は今後どんな事に努力するのが良いか」に対する意見発表、クラブ活動の実際についての発表、研究発表、レクリエーションコンクールの4部で、各ブロック代表が競い合った。西浦さんはこのどれかで発表された可能性がある。ただ、技術競技が全国大会で始まるのは昭和28年10月からである。愛知県立追進農場が会場で自動耕耘競技と鶏の解体競技の2本であった。だから技術競技ではない。もう一つの可能性は、発表とは関係なく各学校の代表者として参加されていたことである。西浦さんご本人の記憶が定かではないのはこのためかもしれない。前年の第2回全国大会のときは、日本連盟から県連盟に再三にわたり参加要請があり、各校から人員の動員のようなかたちで多数参加したようである。

―その他の高校生活の様子を
六甲登山があった。六甲登山口から登って行く。姫路城への遠足があった。修学旅行は二年生の時、日光東照宮・中禅寺湖・国会議事堂・二重橋方面。花卉クラブで菊を育て、演劇部にも入っていた。マラソン大会や運動会は苦手だったそうだ。三年生の時、運動場の拡張整地工事が行われる。「プロの土木作業員がきてやってました。ツルハシで土を潰して、トロッコに積んで出していた。農業科だから働いたという記憶はありません」。「農業科だけ田植え時の農繁期は学校休み、農繁休暇があった」。「夏は体験実習。静岡の三島の酪農家に5人ほどで行った。鎌で山の草刈り」。

―高校を卒業してからどうされたのですか
「1954(昭和29)年3月に高校を卒業、すぐに農業をはじめました」。卒業の1年近く後、1955(昭和30)年2月17日、4Hクラブの第5回兵庫県農村青少年クラブ実績発表大会に有馬郡三輪町4Hクラブの一員として参加、「私の畜力利用による麦作の合理化」と題するプロジェクト発表が同発表少年部で第2位に入賞する。「麦作に畜力を利用することによって労働の生産性をたかめ、ひいては麦作の生産費を切りさげ、近年増加している輸入の外国麦と対決する」ことが動機であった。このころ西浦家では家畜は乳牛(メス)2頭、和牛(役用)1頭、緬羊2頭、鶏50羽を飼育されていた。
1955(昭和30)年8月16~19日、農林省、福島県、日本4H協会共催で第1回全国農村青少年クラブ技術交換会が猪苗代湖畔で開催され、西浦さんは兵庫県代表のひとりとして参加する。3日目、兵庫県代表西浦さん・KSさん両名が4種目の技術競技会(判定競技・診断競技・審査競技(作物・家畜・生活改善から選択)・鑑定競技)に参加される。ご両名は共に、審査競技会で1000点以上の得点者に授与される紫リボンを授与される(記念品も)。西浦さんはこの輝かしい成績を収められたばかりではなく、こんな収穫もかつて記録されている。「この大会にアメリカの4HC員二名が参加していたが、異なった環境の中に生まれたお互いが、共に語り共に生活する中に芽生えた友情もうれしいものであった」。翌年の西浦家へのアメリカ人の受け入れにつながるように思えた。

【補足】4Hクラブとは
「4Hとは、農業の改良と生活の改善に役立つ腕(Hands)を磨き、科学的に物を考えることのできる頭(Head)の訓練をし、誠実で友情に富む心(Heart)を培い、楽しく暮らし、元気で働くための健康(Health)を増進するという、同クラブの4つの信条の頭文字を総称したもの」(農林水産省)。20世紀初めアメリカで起こり、戦後日本に導入された。農村青少年のグループ活動だった。兵庫県下では1949(昭和24)年に県内各地の町村に403もの単位クラブが結成され、7月19日に社団法人兵庫県4Hクラブ創立総会が行われた。同年の有馬郡内では各町村に結成されるが、高平村内が最も多い。同村では14の4Hクラブが結成され、有馬高校定時制の羽束分校にもクラブが結成され、女生徒たちが参加した。「羽束和久郷クラブ」がクラブ名である。西浦さんの地元三輪町では2クラブである(昭和27年10月の県調査では、高平村が4クラブまで減じ、三輪町は8クラブに増加している)。1951(昭和26)年には社団法人日本4H協会が設立された。会長は松下幸之助氏で、同氏は物心両面から援助をされた。

                   猪苗代湖畔の会場入り口で兵庫県メンバーと

―アメリカ人を家庭に受け入れられたのですね
1956(昭和31)年、4Hクラブの国際農村青少年交換計画でアメリカから農村実習生の青年二人が来日することになった。当時農林省は「1947年から米国の農村青年が中心となって始めたものです」。「狙いは、農村青年が他国に渡ってその国の農家生活や農村生活を実地に体験して国民相互の理解を深め、世界平和へ貢献しようとするものです。戦争のない平和な世界を各国の農村青年の協力によって達成しようというのであります」と、西浦さんらに説明している。戦後11年で、農林省はアメリカ側の感情を害さないように気を使っていたと西浦さんは振り返られた。「原田春男先生が兵庫県にいた時で、また母親(ゆきえさん)が高次生活改善クラブのメンバーで生活改善クラブの県の協議会の副会長をしていた縁ではないかと思う。原田先生がアメリカ人を受けよと」と推理された。「親はアメリカを敵のように思っていた、家焼かれて食糧難で苦しんだから」。しかし、西浦家では「母が、県が言うているんやったら受けよう。日本もアメリカと仲良くする時代がくるから受けよう」と、受け入れを決めた。「戦争で家を焼かれた西浦さんがアメリカ人を受けとると話題になった」。
1956(昭和31)年9月17~25日、アメリカ人のカリフォルニア州生活改良普及員ワンダ・L・ガンプレヒト(ガンプレート)さんがホームステイした。「彼女はうちの座敷でよく勉強した。天秤棒を担いで仕事もした」。「他所(各地で滞在)は家を改造して水洗トイレを作ったそうだが、うちはそんなことはしない。トイレは旧式のまま、風呂は長州風呂や。鶏を殺して食べるのがご馳走、それとみそ汁ばかり、しかし喜んで」。「シラミが頭に入って大変だったことも」。
「日本各地で8軒に滞在したが、うちの家が一番よかった、人間的に一番良かったといっていたという。アメリカ大使館が感想文を書けと、そこで私が書いた。それは全米の『NATIONAL 4-H NEWS』という本のトップに感想文がMICHIO’S MESSAGEの見出しで載った」。
西浦さんはメッセージのなかで「母と食事について相談しました。私たちはお互いに日本食とアメリカの食事を取ることにしました」。「母国に帰る時、日本語で母親を意味する「お母さん、お母さん」と叫びました」と紹介されている。西浦さんが将来にわたって国際交流に携わられる原点といえる気づきにふれられている。「彼女からアメリカ人の考え方の真髄を知ることができました。それは人間の尊厳を認めることと、いつか世界をもっと良くしたいという気高い意識から来ていると思います。それはまた、私たちが民主主義の特徴を理解する手助けにもなります」。

【補足】西浦さんの母ゆきえさんと改良カマド
1948(昭和23)年、農業改良助長法が施行され、農村の生活改善の取り組みが列島各地ではじまった。1951(昭和26)年に西浦さんの母ゆきえさんら数人が話し合って高次生活改善クラブを発足させる。
このころ農村の課題のひとつがかまども含めた台所の改善であった。たとえば6回卒業の西浦さんより先輩の有馬高校4回卒業の女性Yさん(当時20歳)が広野4Hクラブ所属で、兵庫県農村青少年クラブ実績発表大会(昭和27年)で次のように語っている。「私は炊事を担当してから台所が婦人をいかに過労におとし入れているかが判りました。農作業を終えて帰っても、女性は一日の疲労を癒すために食事の支度をしなければなりません。…食事の支度がおそい等の理由で、家庭内のなごやかさのこわされる場合も幾度かあります。…料理の講習は受けても、設備が昔のままでは炊事に要する労力は少しも軽められませず、延いて料理講習も無意味に終る場合が多い。…それで母や妹達とどうか台所を改良していただきたいと念願してきました」。
各地ではカマドの改良(改良カマド)に取り組まれた。「従来のカマドは、かがんだ姿勢を要求するため体の負担となり、煙による眼病の原因にもなっていた」(『三田市史』第二巻)。また、農村生活改善実行促進のため県農務課技師が「生活改善いろは歌」をつくるが、「ろ」は「炉は煙り、能率悪く不衛生、卵貯金でカマド改善」といわれていた。
有馬郡内で改良カマドに取り組んだのが奥建材店(当時、三田町の神戸銀行三田支店前)である。店主奥春二さんにアドバイスして改良に取り組んだのがゆきえさんらである。県下への普及に協力したのもゆきえさんらである。「奥式改良かまど」と命名され、宣伝文句に次のように書かれた。「兵庫県農業試験場における改良かまど・風呂場展示会及び全国大会において最優秀の好評を博しております」(昭和29年)。「特長―燃料は長さをえらばず普通かまどの3分の1…たき口から煙がでない。…かまどの前に「心の反省」と刻んだ鏡を取付けたのは他に例のないサービス」(昭和29年)。「農林省推せん・兵庫県4Hクラブ推奨」(昭和30年)。

                      1954(昭和29)年の広告

―今度は西浦さんがアメリカへ
1958(昭和33)年、社団法人日本4H協会の実施する第6回国際農村青年交換計画の日本代表に選ばれて、渡米される。この計画の目的は「農村青少年クラブ員の中から優秀な者を選び、これを米国に派遣して、同国の農業及び農村生活を体験させながら、農民相互間の理解と友愛の精神を培い、帰国後は修得した知識、技術を我が国の農民に伝え、農業及び農村生活の改善発展に寄与せしめる」ことにあった。日本4H協会では、昭和28年から全国農村青少年クラブ員より男女各1名を選抜し、派遣してきた。「1956(昭和31)年アメリカ人受け入れの感想文が目に留まりアメリカ大使館から今度はアメリカへやったると声がかかり」、「全国から8人の応募があったけれどお前を行かすと」。「プログラムは“People to  people”」。
「ビザを簡易発行でハワイへ。ここでミスターチャンから英語を2か月勉強。ミスターチャンがサインをしたので正式にビザが出た。英語ができるのがビザ発行の条件やった」。こうして4月上旬より11月下旬までの半年間米国カリフォルニア州・ミシガン州で農業研修を行われた。6戸の農家に滞在し、得られたことをさまざまな機会に次のような言葉で紹介されてきた。カリフォルニア州サンタクルーズの教育委員であり、農場を経営しレストランに野菜を入れていた、滞在先の1人イタリア系移民のマジョーロさんに言われたこととして「「お前は、自分で農業をしようとしとる。それはいいことだが、キリスト教的に判断したら、神が、お前を農業の道に進むように導いた結果お前は農業に就くことになったんだ」と。私は、天職ということを初めてその人に教えていただいたわけです」。もう一つのこととして「トマト」にふれられる。「アメリカでは私が滞在した先々で私の食べたものがノートに記載されて、次の滞在先に引き継がれていました。私は行く先々でトマトを食べていたので、滞在先の一人が「お前はトマトをよく食うな。日本もこれから経済的に裕福になったら、若者は必ずトマトを食う。お前はトマトを一生懸命勉強して、自分の経営の柱にしなさい」ということを言ってくれた」。そして、「今後の農業は組織農業でなければならないと確信、日本に帰って昭和38年から、ずっと50年間トマトを作ってきたわけです」。

広大な農地で農業研修中の西浦さん

―帰国後たくさんの人を西浦家で受け入れられたそうですが
「いままで何十人とうちに受け入れてきました」と聞いて驚いた。兵庫県の4Hクラブなどのあゆみをまとめた本で次のように西浦さんが紹介されている。「西浦君は、この渡米を一つの契機として、以来、米国の4Hクラブ員、農業者等と親交を深め、前記、交換計画により、その後毎年、来日した米国の青少年男女の受入れはもちろん、諸団体の組織を通じて来日して来る諸外国青年男女の受け入れも積極的に行うなど、国内外の関係者より高く評価されている」。今回西浦さんのインタビューをした者から考えると、諸外国青年の家庭への受け入れは、1958(昭和33)年渡米の際に西浦さんが説明を受けられたアメリカの「People to people」プログラムを実践されてきたように思えた。1963(昭和38)年11月には、この年来日したアメリカクラブ員を受け入れ、会長松下幸之助氏から「家族の一員として親身も及ばぬお世話くだされ」と感謝状が贈られている。1956(昭和31)年にアメリカ人を受け入れられてから西浦さん流の国際交流を続けてこられた。アメリカ人ばかりではない。1966(昭和41)年には4H協会がアジア農村青年交換計画で招いた台湾の女性を2か月近く受け入れられた。タイ、マレーシア、イギリス、ドイツ等からも研修生を受け入れられた。
家庭への受け入れは外国人ばかりではない。たとえば、熊本県益城町から農業研修を受け入れられたことがある。この人の言葉を紹介しよう。「アメリカのガンプレット女史が日本の農業事情を調査した中で最も優秀であると折り紙をつけた農家でした」。「ある大雪の日、西浦さんと町へ汲み取りに出かけました。肥桶を肩に担いで前方二十メートル先はなにも見えない大雪の道を歩いて行きました。西浦さんが途中でパンを買いに寄りました。店の奥さんがこんな寒いときに働いている人からはお金は取れないと笑って言われました。そのときの情景は今も忘れられません。西浦家での研修は最高に幸せな一日一日でした」。

―トマト栽培について
アメリカから帰国してから5年後、1963(昭和38)年から市内では初めてのハウストマト栽培を始められた。それまでの西浦家の米と麦の二毛作から「施設園芸に切り替え、トマトを1段5畝、多い時で3段。イチゴも7段ほど」「最初は“日光”というトマト、その後いろいろ作って、店頭で日持ちしない“旭光”も、最後は桃太郎」。「我が家で1日200箱、三田で栽培を始めた8軒合わせて、多い時で1日1箱4kgのものを1500箱大阪中央市場に出した。“日光” を作ったら1箱に5、6個入れたらいっぱいになる。市場で1箱180円で売れても300円に戻してくれる法律がある、価格安定基金、当時はそういう時代」。
「最初は竹を骨にビニールハウスを作った」そうだ。このときのことを後日このように語っておられる。「この附近では第一号であったビニールハウス1,300㎡を建てましたが、一夜にして雪の重みによって崩壊したのです。この年はほとんど収入がなく、自然との対応がいかに困難かを知らされました」。「関西電力から話があり、電熱温床線使えというわけや。近畿電気から5人ほど職人がきて作業」。「5年間は病気無し、6年目に連作障害にあった」。この時は試験場長さんらの助力があって克服されたようだ。
電熱温床を利用してトマトのハウス栽培を始められる。その後のことは、1987(昭和62)年、農業電化推進功労者として農林水産大臣賞を受賞されたとき紹介された業績文を使って紹介しよう。「在来型農業経営から脱皮のため昭和38年、三田市で初めてのトマトのハウス栽培を導入、電熱温床による育苗を行い、地域へ技術の普及に努めると共に組織農業形成に尽力、三田市のハウストマト部会を発足させた」。「施設の環境制御に関する試験を提案、県農業技術センターでヒートポンプ等電気熱源を使用した実験を続け、電力の農業における高効率使用に努力」「春作のトマト栽培に、12月中はロウソクで加温し、12月末より1月末までは電気温床を利用し加温する多収穫技術を開発、地域へその普及に努めた」。ロウソクで加温する方法は、1983(昭和58)年6月、農業電化功労者として農林水産省農蚕園芸局長賞を受賞することになった西浦さんに読売新聞記者が取材、記事にした。「石油ショック後は、これまでの電力などの効率利用から「省エネ農業」へと一八〇度転換。五十三年からは、冬のトマトハウスのビニールを二重張りに、さらに暖房を重油から、ろうそくに切り替えた。十五平方㍍当たり一本(長さ三十㌢)をともすが、それだけで室温が二度高くなり、夜の冷え込みが防げるという」。

―活躍は多方面に
海外への視察も数多い。団長として、また団員として。いくつかを紹介しよう。1976年、兵庫県花と緑のヨーロッパ園芸視察団。1987年、イスラエル農業視察団。1989年、アメリカ合衆国西海岸農業視察。1997年、ワシントン州キティタス郡農業視察(三田市)。1999年、ワシントン州農業視察。2006年、ニュージーランド・オーストラリア農業事情視察団。2013年、アメリカ農業事情視察団、など。また、西浦さんは34歳で推薦されてロータリーの会員になる。1972(昭和47)年3~5月、ロータリー財団研究グループアメリカ派遣団の団長として、アメリカへ派遣されている。団長は高山忠雄(元)神戸高校校長(初代校長として1948~1964年度の長く務められた)からの指名であったらしい。「高山校長の長男がブラジルに行くとき有高にトラクターの勉強にきたことがある。畑中芳夫先生が丁寧に接待していた。その恩が私に来た。原田春男先生が高山さんにわたしを紹介、高山さんがそれを受けて団長に。他は県の職員」。「英語が不十分だと神戸のパルモア学院を紹介され、トマトつくりながらパルモアで勉強した」。
いろいろな公的な役職についておられるが、すべてを挙げるわけにはいかないほど多い。いくつかだけ紹介しよう。1973(昭和48)年秋、最初の兵庫県農業経営士の一人として認定され(西浦さん含め24名)、平成12年度で退任するまで、兵庫県農業経営士会副会長、会長も歴任。海外での農業研修経験者で組織する兵庫県国際農業者交流協会会長。アメリカから始まった国際農村青年交換計画(IFYE)の日本側の推進団体である国際農村青年交換日本協議会副会長、1991年、IFYEアジア理事会、1992年、世界大会(台湾)などへ参加。兵庫県農業会議副会長、三田市農業委員会会長。2019(令和元)年6月、三田市国際交流協会会長に選出されておられる。兵庫県産業教育審議会委員、県農林漁業審議会委員など多数の委員も歴任。
受賞・感謝状も多い。これもいくつかを紹介。1991(平成3)、兵庫県農業功労章。1993(平成5)、 三田市農業功労章。2000(平成12)5月、黄綬褒章(経営部門野菜)(農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する方(内閣府)が対象)。2014(平成26)年、三田市第1回国際交流貢献賞、三田市さつき賞(産業功労)。2016(平成28)年、叙勲、旭日双光章(農業振興功労)(全国または都道府県の区域を活動範囲としている団体の役員、市町村の区域を活動範囲としている団体の長)。
本校との関係では、2008(平成20)年5月から有馬高校第9代清陵会会長を務められたことは記憶に新しい。本校が造園科・園芸科から緑地園芸科・生産流通科へ、緑地園芸科・生産流通科・家政科・生活情報科・普通科から人と自然科・総合学科に学科改編されるときもそれにかかわられた。後者では「新生有高懇話会」の座長をつとめ、提言をまとめられた。いまも本校国際交流事業にかかわられている。

―テレビにも出演、知事と対談
1965(昭和40)年8月14日、毎日TVで放送の“兵庫県アワー”、金井元彦県知事との対談「農家の若夫婦と語る」に、西浦さんは夫妻で出演された。「今は頭を使う、考える農業の育成に意欲を燃やしていらっしゃいます」と坂本登志子アナウンサーから紹介され、金井知事から、結婚のいきさつからはじまって、農業経営について質問がなされた。
知事の問いかけに妻輝子さんがこのように答えられた。「私の場合は、実家が農業で、卒業後もずっと農業を手伝っておりました。農業というものは、人が思っているほどつらいものじゃなくて、案外おもしろいものです。ですから私は、同じやるならば、専業農家の進んだ近代化した農家がいいと思って…」。
先述した熊本から来た研修生は妻輝子さんのことを次のように紹介されている。「明るい家庭とはこんな家庭かと教えられました。奥さんは医者に行っても薬価は無料で、映画館の入場券も一週間分送ってくるほど村づくりに貢献した人でした」(無料、一週間分の真偽のほどはご本人には確かめておりません―事務局)。

清陵会事務局員3人でお伺いして、2時間近く経ち、インタビューを終えました。夫妻で玄関先までお見送りくださいました。どうもありがとうございました。